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門構えで格式が決まる・・・・

2006年09月22日 13時35分31秒 | 江戸時代とは・・・・・

一口に武家屋敷といっても、幕臣と大名の家来とでは、その規模が大変に違います。
5千石以上の旗本
になると表、裏の区分も厳重で、その生活も大名に準じます。

2千石ぐらいですと、表、裏の区分もさほど厳重ではありません。 新参の家来が主人に目見えをする時は、奥方も表に出てきてその家来に会っていたようで、これが大名と旗本との大きな違いだそうです。

   
    鳥取藩池田家の上屋敷          加賀藩前田家の御守門(赤門)

左右に開く「開き門」は、禄高の大小にかかわらず旗本の家には必ずありました。
御家人の方は門ではなく、木戸ということになっており、片開きです。

三百石以上の旗本の門には門番所があり、門番が立っていました。
これが二百石となると、門番所があっても、門番はいないそうです。

  
    足軽長屋                 駒込の名主屋敷

大名の家臣で江戸へ詰めている者は、大半は大名の上屋敷(地方の大名が、江戸に来た時の屋敷で、その藩の政治・経済・外交の中枢)などに屋敷を拝領して、その中で日常の生活をしていました。 
これを定府といって殿様の参勤交代に関係なく江戸居住の役ですが、殿様の共をして江戸へ来て1年後にまた共をして帰る者を勤番侍といい、この勤番侍は、1年間の単身赴任で江戸に来ている訳ですから、こういう人は「お長屋」を拝領して借り住まいをします。

この長屋は一般の町長屋とは違い「武士長屋」といい、上屋敷や中屋敷(隠居した藩主や第2夫人、子供などが住んでいます)の周辺の壁に密着して立ちならんでいました。

これを表長屋ともいい、多くは2階建てで、2階の窓は往来に面して「日窓」というものがあり、本来はその大名屋敷の門番のいる潜り戸を用いますが、時にはその日窓から行商人を呼びとめ物品を購入している者もいたといわれています。

江戸時代には、その屋敷、構えを見れば、その主人の格式や身分が分かるようになっていました。
では、今はと言うと・・・・資産の有無?でしょうか?



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