江戸時代の大坂を治めていたのは、武士ではなく、町民の自治組織だったようです。
普通、武士階級は全体の7%ぐらいと言われていますが、大坂の町には、それ以下だったと言われています。
幕府直轄と言っても、大阪城には、何年間で代わる城代がいますが、権限はほとんどなく、城勤めの武士も少なく、蔵屋敷があるため各藩に務めている武士がいる位だったのではないでしょうか?
その他に大坂町奉行所を、江戸幕府の遠国奉行の一つとして大坂に設置されています。
東西の奉行所が設置され、江戸町奉行と同様に東西1ヶ月ごとの月番制。
老中支配下で大坂三郷及び摂津、河内国の支配を目的とされました。
大坂三郷の街の行政を担当したのが、町人の中から選ばれた三郷総年寄とその下に属する町役人であった。
そうなると、町を治めるのは、必然的に町人が権力を持って来ます。
大坂三郷とは、大阪城下における北組、南組、天満組の3組からなっている町組の総称で、現代のキタ、ミナミと呼ばれているのは、ここから出たと思われます。
大坂は全国各地から集まる商品の最も重要な積み替え地でした。
また、巨大な米蔵があり、全国から米が集まり、大名たちは、米を金に換えました。
その管理、維持を大坂商人が行い、彼らには地域を超えた米取引に対する特別の認可が与えられていました。
米の他にも海産物、野菜、果物、大豆、乾物、油、塩、藁、紙に至るまで、その価格は大坂で決められたそうです。
その価格が、全国の標準価格となり、江戸時代の大名の財政を左右しました。
大坂の商業資本は、無担保の「大名貸し」で多額の利益を得ていました。
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