貧風に 白きマントに包まれし翁草にも きみとシェルは似て
■
卯月になればかなり忙しくなるということは分かっていたが、
昨夜もブログできなかった。一昨日も宮世話の仲間と酒菜『さ
くら』で‘呑みニケーション’。鯨の刺身やわさび菜の醤油漬
や新酒を肴に情を深めたわけだ。高度情報社会になっていまだ
にこんなことをやっているのかと訝しがられるが、フェース・
ツゥー・フェースのこの時空間はそのひととなりの追体験には
絶好であり、良き日本的慣習だと改めて思う。
■
昨年のいまごろは街にはぴかぴかの車が走っていたが、いまは
故障や事故傷の車を多く目にすることが多い。ハンドルを握り
ながら不況の深まりを実感し腑に落とす。そういえば、身近で
も金策に血相を変え走る話を耳にするようになったし、また、
親しい人達も次々と転職退社するとのメールが届いてもいる。
■
予約していた辺見庸の『しのびよる破局』が佐川宅急便で届く。
早速、読み飛ばしこれは熟っくりと読む値打ちのある本だと思
い定めた。ここで触りの結びから考えてみよう。
すなわち、資本主義とは、世界の“いうにいえな本質であ
り、無意識であり、現象である。夜なのに夜ではなく、正
気なのに正気ではなく、じつのところ、統一的な価値系か
どうかもうたがわしい。さらに問題なのは、資本主義とい
う自己像を醒めて対象化することに世界は長らくあまり熱
心ではなかったことだ。が、あたかも復旧不可能なシステ
ムダウンのように破局に瀕しているいまだからこそ、私は
一縷の望みをもつ。資本主義のアポリアを粛然として解こ
うとする人びと、システムダウンの暗がりで沈思する人び
とが、これからはかえって増えるであろうと。
アポリアとはたとえば、こういうことであった。「先進産
業文明には、快適で、摩擦がなくて、道理にかなった、民
主的な不自由が、ゆきわたっている」(H・マルクーゼ『
一次元的人間』生松敬三・三沢謙一訳)。マルクーゼがこ
のように縒れた離接原理的な表現をあえてし、「産業社会
の端緒と初期段階における核心的な構成要素であった権利
や自由は、この社会のより高度な段階の前に屈服し、その
結果、それらの権利や自由は伝統的な合理的根拠と内実を
失いつつある」と書いたのは、1960年代だった。しか
し、資本主義が離接原理や排中律を自己身体にふくみをも
ったまま、なぜかそれらを止揚も統一もせずに、ある意味
で言語化されるのをこばむかのようにして、しかし、生き
生きと命脈をたもってきたわけは、これまでだれによって
も得心のいくかたちで明らかにされてはいない。換言すれ
ば、〈資本主義はすばらしいのに、同時になぜこうも益体
もないのか〉の謎は、はしなくも資本主義が予想だにしな
かった劈関節をさらしているいまこそ、徹して思考され、
表現されるべきだし、その可能性もあるだろう。それこそ
が光明である。
『断章 最後の中の“光明”について』
Jacques Derrida
アポリア(Aporia, ギリシャ語: ἀπορία, 「行き詰まり」「問題
解決能力の欠如」「困惑」「当惑」の意味)とは、哲学的難題
または困惑の状態を指す。もっともらしいが実は矛盾している
前提の結果として生じることが多い。さらにアポリアは、そう
した難題・行き詰まりに困惑させられた、つまり途方に暮れた
状態のこともいう。アポリアの概念はギリシア哲学の中に見ら
れるだけでなく、ジャック・デリダの哲学の中でも重要な役割
を果たしているというが、辺見庸のこの問いかけを絶対に外す
ことが出来ないと心の奥に置いた。
■
political regime
それにしても、我が国の政治は救いようがない。といっても間
単に解決出来ないことは辺見庸の本でなくともわかるというも
のだ。責任を取らずぐずぐずと権力にしがみつく政治家やその
応援団の様は、「国家とは最高道徳だ」とアリストテレスの言
葉で‘ノブレスオブリージ’であり、『恥の文化』とは無縁の
世界をテレビで見ている。そのために『二大政党制』はわれわ
れの北斗七星だったはずだ。欧米流のこの政治制度をユダヤの
陰謀という軽薄な情報の流布が絶えない。
■
たとえば我が国の民主党にあって、自民党の公認をとりつ
けられないので民主党から立候補したという政治家が少な
くないのだが、それを正当化するのに、「アメリカではリ
ベラルデモクラシー(自由民主主義)が唯一の政治理念と
なっている」という事実が取り上げられる。実際、民主党
前代表の前原誠司氏がそのような発言を行っていた。政治
理念が唯一ならば、諸政党の政策体系に大差が生じること
はないという判断だ。政策にして(いわゆるクロスヴォー
ティングつまり“相手党の政策に賛成し合う”ことも起こ
りうるほどに)大同小異ならば、所属政党の問題は二の次
とされて当然である(中略)民主党が「寄合世帯」である
というのは一つの可能性でもある。(小沢氏らの)自己責
任論も(前原氏らの)自由競争論も、(菅直人氏らの)市
民主義論も(旧社会党系の)社会保障論も、それぞれに一
理か二理かはある主張である。必要なのはそれらを、歴史
感覚ゆたかな国家論として、ということは保守的な構えに
おいて、総合してみせることであろう。自民党が権力闘争
のなかで革新党に変じ、そこでかなぐり捨てた保守の姿勢
を民主党はきちんと拾えるであろうか。この唯一の論理的
可能性は、しかし、どうやら実現不可能であるようだ。
西部 邁
『【保守再考】(4)死滅に向かう保守政治 』
北斗七星
最も、‘三大政党制’が成立するのであればそれもよいだろ。
しかし、この狭い国に政治政策の‘選択と集中’を中国のよう
な大国ならいざ知らず、狭い国で中選挙区制が上手く機能する
とは思えない。まして、前原誠司のいう政策理念的なものが最
優先とは認めがたく、『権力は必ず腐敗する』ことへの防止命
題としての仕掛け、しくみを第1優先だと置く。そして、「太
陽と月」の陰陽二元論としての二大政党制が、西部邁のいうよ
うに‘クロスヴォーティング’が常套なら共産主義国家体制と
なんら変わらないが、無謬性を核に置く宗教活動を認めない共
産主義国家もまた宗教だという歴史的な学習からは肯定出来な
い。
■
西部邁のようなニヒルな倒錯感を持たない。寧ろ、そんなこと
を詮索したところで状況は動かないと直感している。見方を変
えると多少は野蛮(バーバル)な感じをもたれようと、リアル
な世界とはそんなものだと思っている。試行錯誤に怯む間はな
いと。はじめて民主的な選挙制度を導入した時、回収集票の途
上選挙箱を互いの陣営が奪い合うという無法行為を経験してき
た。それこそ西部邁的に語れば、そうやって真剣で滑稽な歴史
的限界の乗り越えを行ってきたのだと言える。成熟した国家体
制では、絶対無謬を信条とする政治権力思考を経験主義的に排
除し選挙民の選択結果を是とし判定が決まれば、三、四年乃至
は五年毎に政権担当党派と下野党派を選択し交代を繰り返す選
挙制度の常態は、極めて合理的だと思える。そういった意味合
いで、じれったい程の賭場口に佇んでいるのである。
■
ここだけの話、多部美華子のファンだった。『鹿男あおによし』
以来ずっとだ。これもセカンドライフのお陰だ。NHK朝の連
続テレビ小説『つばさ』を観られるとは思っていなかった。こ
こだけの話だが、これは「ひ・み・つ」だ。
■
Pulsatilla cernua
オキナグサ(翁草、学名: Pulsatilla cernua )は、
オキナグサ属の多年草。高さは、花期の頃10cmくらい、花後の
タネが付いた白い綿毛がつく頃は30cmくらい。葉は複雑に切れ
込み白い毛におおわれる。花期は4~5月で、赤黒色の花をつけ
開花の頃はうつむいて咲くが、後に上向きに変化する。本州、
四国、九州に分布し、山地の日当たりのよい草原や河川の堤防
などに自生する。かつて自生していた草地は農業に関わる手入
れにより維持されていたが、これが荒廃したこと、開発が進み
それに山野草としての栽培を目的とした採取により、各地で激
減している。
幻の野草となりし翁草 うぶ毛に赤き鐘花の咲く 尾辻文弘
リアル不況の陰翳の深みが増のはこれから。淑やかに華麗に畦
や堤に咲く曼珠沙華の様に暖かな白いマントに包まれた翁草は、
まるできみとシェル(愛犬)のようだと歌う。歌うが毎日のよ
うに書き綴るが、俗に「てにはを」(弖爾波乎)と呼ばれ、こ
れは漢文の読み下しの補助として漢字の四隅につけられたヲコ
ト点を左下から右回りに読んだ時に「てものにはを」となるこ
とに因るとされる助詞の使い方に苦闘している自分がなんとも
おかしい。
助詞の起源
■