極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

花海棠とオーバーカムⅢ

2009年04月08日 | 時事書評


満開のさくら仰ぎて走る先 沈む夕日にきみは花かいどう




今日は試験菜園の第三次の種蒔きと苗購入。種薪は京壬生菜、
ホウレンソウ、マロウ、スイートバジル、クミンの5つ、苗
は完熟トマト、スイートトマト、小つぶ茄子、サンチュ、ア
スパラガスの5つ。それにしてもお金が掛かりすぎる。培養
土、肥料となるが、中小規模の植物工場を構想するには最適
トータル循環システムが前提になるとだけブログしておく。



夕食はルッコラをあしらったガーリックオイルのミートスパ
ゲティに例の「さゆり」(日本盛)といっしょに食べたが日
本酒が合うのはトマトの酸味が効いたのか美味しく頂けた。
ところで、「さゆり」はさくら色だと書いたが彼女の悪い冗
談に乗せられてしまったことに気付いた ^^;。ついでに謝っ
ておこう。家ミニラーメンのレシピだが、用意するお湯の温
度により加熱時間を変えない、例えば90℃を上回る場合、
二回目の加熱時間を短縮しないと沸騰するので要注意。





辺見庸の『しのびよる破局』の第二章の「生体反応としての
秋葉原事件」をかなり詳細に読んでみた。ひとくちで言うと、
科学技術の‘高下駄’を履いた人類がその発明により“疎外”
される。いいかえれば文明の進化により本来持ち合わせてい
た能力を極めて急速に退化させていくことに危機意識を募ら
せる。

 「リア充」の喪失

  ぼくはあの青年たちが使っていた日本語に非常に興味
 をもちました。そのなかでぼくがとくに衝撃を受けたこ
 とばがあります。秋葉原事件の青年が、携帯サイトの書
 きこみのなかで、「リア充」ということばを使っている。
 若い人たちに使われているらしいのですが、リアルの「
 リア」に、充実の「充」。かれはリア充ということばを、
 リアルな日常生活が充実している人間たちにたいして、
 羨望をもって、あるいは嫉妬し、憎み恋いこがれながら
 使っている。かれはリア充というものを、まったくリア
 充ではない「虚」のところからいっている。
  つまり、かれは十分に自覚しているのです。自分が両
 足をおいている世界というのはリアルではないと。携帯
 電話のモニター画面、ゲーム機のモニター画面、パソコ
 ンのモニター画面、あるいはテレビのモニター画面。そ
 れはリア充ではない。アンリアル-自分はまったく虚な
 る世界に住んでいて、リア充ではないのだと。この想い
 を、かれは十分に対象化しえていないけれども、ぼくは
 このことばによって、事態の本質、その切り口みたいな
 ものが見えた気がしました(中略)。

  
 被害者と加害者の究極的な等価性

  じつは、あの事件を知ったときに、ぼくはあまり驚か
 なかったのです。そういう自分に不思議だった。それと、
 捕まった青年が印象に残らないぐらい普通だった。逆に
 その手ごたえのなさにすごく驚いたわけです。かれ白身
 にあまりマチエールがない。絶叫して「これが正しい」
 とか、「だからおれは人を殺したんだ」ということがな
 い。ぼくにはかれがこのメディア社会の所産のようにも
 見えたのです。つるつるのモニター画面から生まれてき
 たみたいな。そのことと切りはなしてこの問題は語れな
 いだろうという想いがぼくにはある。
  秋葉原事件の青年が派遣労働者として勤めていた静岡
 県の工場の宿舎を、わざわざまるで観光みたいにして見
 にいった者年たちがいたといいます。そして携帯で写真
 を撮って、「なんか笑える」といったとか。ネット用語
 で「テラワロス」という。「テラ」というのは一兆倍を
 あらわす単位。「ワロス」というのは、「笑える」。「
 テラワロス」だから、「いっぱい笑える」、「超笑える
  」。じつはそれをいい放つ人間も世界から孤絶している
 。その人間たちも、関係性の大事なところはモニター画
 面に依存せざるをえない。
  いわば、足下をすくわれるような寂しさというのをも
 っているのだとおもう。たがいにたがいをおとしめあう
 しかなくなっている。極論すれば、そういう世の中にな
 っているのではないかとおもうのです。あの事件の背景
 には、容疑者の青年にかぎらず、たくさんの青年たちが、
 あるいはぼくなんかでも内面にもっているような荒涼た
 る風景というものを見ざるをえないのです(中略)いま
 の世に生きることの、なにか名状しがたい哀しみを禁じ
 えない。「病むべく導きながら、健やかにと命ぜられる」
 そんな背理の世界に生きざるをえない哀しみと、狂いの
 感覚です。
  あの事件はその後に打ちつづく、雪崩を打つような恐
 慌の心的な前触れといってまちがいないだろうとおもう
 のです。それは後知恵としてではなく、あそこに〈なに
 かくるな〉というものを感じたのです。あの青年が特殊
 な人間だったわけではない。あの青年は、あの青年でな
 かったかもしれない。つまり、他の青年と置きかえ可能
 な存在なのではないかという怖さ。哲学的にいえば、「
 被害者と加害者の究極的な等価性」。たとえば、ぼくが
 刺された通行人でもありえたし、あるいは、かれではな
 く、あなたがないしはぼくがあの青年でもありえたので
 はないでしょうか。犯人は捕まったけれども“真犯人”
 がわからないという状態が、引きつづいているとおもう
 のです。あの青年たちに、たとえば「自己愛性人格障害」
 だとか、いろいろな精神障害の名前をつけるのは容易で
 す。というか、あまりにも安直です。病名はつけられる
 けれども、次から次へと発作や痙撃に襲われる人たちが
 でてくるでしょう。誤解を恐れずにいえば、ぼくのよう
 な老人でも、ああいう衝動がまるっきりわからないわけ
 ではないのです。発作や疫学的衝迫が皆無とはいえませ 
 
ん。
  つまり、いまの社会は、人間の生体に合っていないの
 ではないか。合っていないからこそ、断層ができ、ひず
 みができ、それが痙攣のように、発作のように、ある種
 の生体反応として、こらえきれなくなって起きる瞬間が
 あるのではないかというのが、ぼくの仮説なのです。


ここで「進歩」とは「疎外」の原因だが、その「疎外」に「
格差」も「アンリア充」も現象しているわけだ。「生体なき
リアル」からの抑圧が臨界点超えし暴発する。その対策を打
とうにも『自己責任』という呪縛が掛かり、金縛りにあって
いるのだが、それはさしおき彼の主張を詳しくみてみよう。


 時・空間の変容

  かつてマクルーハンーは、『メディア論』のなかで、
 エレクトロニクス時代のテレビ、ラジオ、広告、自動車
 などの多様なメディアの驚くべき展開と文化・社会の

 容との相関を予測しました。そして世界は「グローバル・
 ヴィレッジ」、つまり、ひとつの村になるだろうと。そ
 こでは人間の中枢神経が、身体をこえて拡張していくと
 想定されたのです。そのとき人びとはみんないいました。
 だれもまだインターネットなんかやっていないときに、
 インターネットというのは瞬時に地球の端と端をつなぐ
 のだと。それは人と人をつなげるのだと。
  ところがふたを開けてみると、人と人の関係を結ぶど
 ころか切断してしまったのです。世界は切断された。内
 面が切断されたわけです。人は手間暇かけて会いにいっ
 たりしなくなっていった。ことばもモニター画面にみあ
 ったかたちで空洞化した。そして、世界の切り口という
 か、自分が触りうる世界というのは、モニター画面とい
 う、荒涼たる孤絶状況にある。個々人の内面というもの
 がこまかに切断されて、親、きょうだい、恋人、他者だ
 ちとの関係の質も変わっていった。フェイクでヴアーチ
 ャルなものが原質をおびた実在を、つまりリア充という
 ものを排除した世界になった。これは不思議なことに資
 本の運動法則によくなじんだのです。
  迂遠な苦労とか苦心とか、そういうものがなくなって、
 情報の伝達と情報の受容が、資本の移動同様に、パソコ
 ンで即座にできるということが当たり前になってしまっ
 た。ぼくはむしろそこに恐ろしさを感じます。
  たとえば、本来アルジェリアのオランと東京の距離と
 いうのは気が遠くなるぐらい遠いわけです。ぼくは近く
 まで行ったことがありますが、本当に遠い。ところが、
 メールをしようとおもえばすぐにできる。ぼくが横浜に
 メールするのと同じようにできてしまう。そこに不思議
 さを感じなくなった。もう本当にぼくも遠さを感じない
 のですが、感じないことがおかしいのです。
  つまり、時間と空間を感じる力をぼくらは失ってきて
 いる。ぼくらの時間は、時計化された時間です(中略)
 身体と内面を無視した時計化された時間です。あるいは
 テレビ化された時間で商業資 本によって画然と「こう
 でなければならない」と強制された時間です。その時間
 から転げおちる者は「負け組」になってしまう。ぼくら
 はそういう疎外のされ方をしているのではないでしょう
 か
(中略)。 

                      Bonsai - Manzano chino                          
 端末化する生体

  ぼくはネット、テレビもふくむ情報のデジタル化は世
 界像の扁平なデジタル化だとおもうのですが、即時的な
 情報の伝達と受容が可能になったということを、逆に危
 険なこと、マイナスのこととして考える発想が、いま、
 非常に大切だとおもいます。つまり、即時的にメッセー
 ジが発信され、それを受けることができる世界は、便利
 なようでいて、じつは長期的にはヤバイよと。人間の生
 体として、なにか窮屈な、生体として受けいれることが
 できない無理がきているとおもうのです。これにより人
 間は思考的な生きものではなく、反射的な有機体である
 ことを求められている。末期資本主義はわれわれに思索
 ではなく、反射と即時的かつ即自的な反応のみを要求し
 ている。
  秋葉原事件の青年は、たぶんメディア世界の激変を対
 象化するところまで余裕をもたされていなかった。いま、
 「デジタル・ネイティブ」ということばがあるけれども、
 かれらのばあいも、ほとんどデジタル・ネイティブに近
 いとおもうのです。生まれたときからサイバースペース
 とモニター画面がある。若い人たちは内面の空間という
 ものが、自己身体を意識しないで、自覚もなしに、サイ
 バースペースと一体化させられてしまっている。それは
 抽象的なようで、大問題だとおもうのです。秋葉原事件
 に代表される青年たちの内面世界を覗くということは、
 自分の内面の変調を知るためにも非常に大事なことなの
 ではないかと、ぼくは感じています。

 Jean Baudrillard

  「われわれはみな携帯電話を内蔵した存在になった」
 とジャン・ボードリヤールが書いたのは早くも1990
 年代でしたが、事態はいま、文化論の象徴表現的次元を
 こえて、はっきりと現実化しています。人間が携帯電話
 を身体に内蔵したような生きものになってしまったこと
 は、秋葉原事件の青年だけでなく多くの人が認めざるを
 えない事実なのです。ボードリヤールは「生活とイメー
 ジの過剰接近」や「時間的・空間的隔たりの無力化」に
  より人間社会に「重大な混信状態」が生じるだろうと予
 言していますが、いまがまさにそれです。秋葉原事件は
 ボードリヤールの予感の現実化ともいえます。
  ぼくらのばあいは、青年期になっても、各種モニター
 画面はもとより、携帯もなかったわけです。携帯をもっ
 ているのは、「あんた、サラ金の取りたて業者じゃない
 の?」というぐらいの偏見をもっていたりした。第一う
 るさかったし、人間の所作として異様だとおもっていた。
 電車のなかで携帯をいじって、携帯でしゃべっている。
 ぼくはそれをエツセイにもしたことがあるけれど、異様
 さしか感じなかった(中略)なかなか携帯がつながらな
 かったり、メールをうまく受信できなかったり、あるい
 は自分のパソコンの調子が悪くて起ちあがらなかったり
 したときに、非常に不機嫌になってしまう。逆に、携帯
 もパソコンも非常に快調に受信し発信できているとき、
 検索もスムーズにいくとき、なにか妙に朗らかになった
 りする。つまり、自分の生体というものがデジタル機器
 の端末と化している。その好不調で自分の内面の色あい
 が決められている。それはおかしい。ただ、おかしいと
 つかのま感じてもわれわれはすぐにデジタル世界の蜃気
 楼に存在証明を消されてしまうのです(中略)マチエー
 ルをうばわれると、人間の生体はとんでもないゆがみ方
 をしていくのではないかというのがぼくの直感としては
 あるのです。

        辺見庸『しのびよる破局』/26~37頁


「マチエールをうばわれると、人間の生体はとんでもないゆ
がみ方をしていくのではないか」との仮説をめぐって考察が
なされていくが今日のところはここまで。


太陽黒点なし、百年ぶりの活動極小期か

太陽活動が衰退に向かう。太陽に黒点がないのだという。怖
い話が流れる。百年ぶりの活動極小期だというが(1913年以
来でその年に記録された無黒点日は311日を記録)。その影響
がどれほどかの予想はついていない。 1645~1715年のマウン
ダー極小期と呼ばれる太陽活動の低下した時期はグリーンラ
ンドにわたる海路の大半は氷に閉ざされ、オランダの運河は
日常的に厚い氷で覆われたという。1695年にはアルプスの氷
河が拡大し、海氷も増加しアイスランド周辺の海域が氷で埋
った。このような以前の記録からしても、最近の太陽はそれ
でも活発な方だという。

太陽 生命の源 太陽



夕食が終わり一盃機嫌でブログを再開させたら、USBハブ
が必要になり彼女に運転をたのみ、近くのスーパーマーケッ
トまで買いに出かけた帰り、川岸の道路には桜がほぼ満開。
美しいなといいながら駆け抜けるとその先に大きな夕日が西
近江の山々に沈もうとしている。本当は僕が運転しきみが横
で景色を堪能し眠気に誘われるシーンを歌にしたかった。ハ
ナカイドウ(花海棠、学名:Malus halliana)は、バラ科リンゴ
の耐寒性落葉高木。別名をカイドウ(海棠)、スイシカイ
ドウ(垂絲海棠)、ナンキンカイドウ(南京海棠)という。
中国原産の落葉小高木。花期は4~5月頃で淡紅色の花を咲か
せる。結実はしないことが多い。
人家の庭に多い「カイドウ」。
花言葉は「美人の眠り」。

                          

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