極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

君を君打つわれをわれ打つ

2018年05月17日 | 時事書評

      

                                      

『呉子』

春秋戦国時代に著されたとされる兵法書。武経七書の一つ。『孫子』と併称される兵法書。前四
世紀楚の宰相であった呉子の言を集録したものという。

1.図  国(とこく)
政治と戦争。戦争手段にうったえるまえに、まず政治を正さなければならない、として、呉子は
戦争を分析、戦争の種類に応じた戦い方、用兵の原則を述べる。

適材適所集団 
武侯がたずねた。
「軍を掌握し、人材を登用して、国防を万全にする方策を聞かせていただきたい。 呉起はこた
えた。「聖王は、まず上下の秩序をととのえ、臣下や人民に正当な位置を与えました。そして、
資質に応じて教育し、そのなかから優秀な人材をえらび、戦火の突発にそなえたのです。むかし、
斉の桓公は士五万人をつのって天下に覇をとなえることができました。晋の文侯は、四万人の挺
身隊をあつめて、やはり覇者となりました。また、秦の穆公は、突撃隊三万を組織して、四隣の
敵をことごとく征服しました。

このように、強国の君主たるには、必ず人民の力量を計算し、これを活用しなければなりません。
そのためにはどうするか?
まず、勇気のある猛者をあつめて一隊とします。
生来戦好きで、全力をつくし勲功をあげようとするものを、一隊とします。
高い障壁をこえ、長い行軍に耐え、動作が敏速でよく走るもの、これらを一隊とします。
家柄はよいのに境週にめぐまれず、失意の中にあるものを、一隊とします。かれらは、武功をあ
らわそうと必死に戦います。
城や陣をすてて敗走したことのあるものを、一隊とします。かれらは、恥をそそごうとして、よ
ろこんで死地におもむきます。
以上、五つの戦闘集団こそ、軍における精鋭であります。このような精兵が三千人いれば、どん
な重囲も打ち破ることができ、また、どんな堅城をも攻略することができましょう」
        
武侯〉 魏の文侯(→序説、134頁)の子。前395年~前370年在位。呉子は文候の死
後、その子武侯に仕える。だが、さすがの軍略家も、のちに宰相公叔にそねまれ、その謀略によ
って武候不信を買い、やがて魏を去る。

雪辱による動機づけ:選手権のリターン・マッチで、前回の敗者が思いがけない力を発揮するこ
とがある。『呉子』はこれを「人事管理」に活用しようとしているのだ。
雪辱による動機づけ 
選手権のリターン・マッチで、前回の敗者が思いがけない力を発揮することがある。  『呉子』  はこれを
「人事管理 」 に活用しようとしているのだ。


  
世界はわれわれの畑だ。   ヘンリー・ジョン・ハインツ(1844~1919

第3章 伝説化されたアメリカの加エトマト産業
第1節 イギリス、ロンドン。大英図書館
4.アメリカ、ミシガン咀アィアポーン。ヘンリー・フォード博物館
アメリカで伝説化された加エトマト産業の歴史、この業界の発展の一大叙事詩は、いったいどこ
でどのように始まったのだろう。

その答えのヒントは、ミシガン州ディアボーンに見いだすことができる。フオードの創案者ヘン
リー・フオードの生誕地で、フオードの本社がある町だ。わたしはこの町へ行き、産業資
本主義
の殿堂、ヘンリー・フオードは博物館を訪れた。ヘンリー・フオード自身が企画・建設し
たアメリ
カ最大級の博物館で、グリーンフィールド・ヴィレッジという広大なテーマパークも
併設されて
いる。蒸気機関恥やT型フオードに乗ることができて、ファミリー客にも人気があ
る。そしてこ
こは、大胆かつ先見の明かあった、かつての起業家たちの栄光を称える場でもあ
る。
園内には、トーマス・エジソンの研究所、ライト兄弟の自転車店、ヘンリー・フオードの作業場
などが当時のままの姿で保存されている。米国した子どもたちは、ソーダを飲んだり、お
菓子を
食べたりしながら、そうした施設をひとつひとつ訪れる。歩道橋を散策しながら、トラックの生
産ラインを見下ろすこともできる。大統領専用車などのレトロカー、古い農業機械、かつて実際
に空を飛んでいた初期の飛行機など、ありとあらゆるエンジンつきの乗り物が並んでいる。しか
し、どうしてこれほど多くの産業遺産がスポットライトを浴びて展示されるのか?いったい何の
ために?それは、アメリカの伝説この国の素晴らしい産業史を後世の人々に伝えるためだ

 Jan. 24, 2017

ようやく目的地にたどりついた。赤いレンガ造りの二階建ての家だ。上階に五つの窓があり、屋
上に小さな煙突がふたつ立っている。間違いない。この家こそがあの伝説化された加工トマト産
業の歴史のスタート地点だ。これを見るために、はるばるディアボーンまでやってきたのだ。こ
の資本主義の聖地を訪れるために。

ここはいわば、19世紀版スティーブ・ジョブズのガレージだ。ジョブズがガレージでアップル
コンピュータの第一号機を製作したように、ヘンリー・ジョンーハインツはここで初めてケチャ
ップを生産した。小さくて狭苦しく、決して快適そうではないこの家で、のちに億万長者になる
起業家が、大きな飛躍の第一歩を踏みだした。まったく華やかなところのない、地味で目立たな
いこの家が、アメリカでもっとも伝説的な場所のひとつになったのだ。

ハインツー家が暮らしたこの小さな家は、1854年、ペンシルベニア州シャーブスバーグに建
てられた。1904年にいったん解体され、ピッツバーグの巨大なトマト加工工場に移築されて
いる。以来、この家を描いたデザインはハインツ社のシンボルマークとして用いられるようにな
り、20世紀には、新聞、ポストカード、ポスター、従業員を表彰するときに贈られるメダルや
ペンダントなどに使われた。1996年には、世界各国の従業員に、この家をモチーフにした
リスマスランプが贈られている。

 

ハインツの家はその後再び解体され、1954年6月28日、このヘンリー・フオード博物館に 
寄贈された。このとき、ハインツとフオードの創業者の孫たちが、共同で祝賀会を開催している
。ヘンリー・ジョン・ハインツの孫、ヘンリー‘ジョン‘ジャック・ハインツニ世が、ヘンリー
・フオードの孫、ウィリアム・クレイ・フオードに、家の玄関前でうやうやしくカギを手渡すと
いう儀式も行なわれた。

現在、この家の入口には次のような解説文が掲示されている。

「この家で誕生したヘンリー・ジョン・ハインツは、消費者の購買意欲を促進する宣伝方法をた
くさん発明しました。ロゴマークやシンボルマークを使ったり、新しい宣伝方法を駆使したりして
消費者がハインツの製品をすぐに見分けられるようにしたのです。そのおかげで、会社の売とは
伸び、収益も増えました」

家のなかには、ハインツの初期の製品がたくさん展示されている。八角形をしたオクタゴナルボ
トルもあった。コカ・コーラのボトルに並ぶ、アメリカ流ライフスタイルのシンボルとなったボ
トルデザインだ。
20世紀初頭の従業員向けに作られたハインツのポスターが、きちんと額装されて飾られていた
。わたしが好きな一枚だ。後光を浴びたこの家が、まるでキリストが誕生したクリスマスの朝の
小屋のように神々しく描かれている。そこにはこんなコピーが書かれている。
「すべての歴史はここから始まった」



5.

ヘンリー・ジョン・ハインツが保存食品ビジネスを始めたのは、まだ子どものころだったと言わ
れる。ドイツ出身の母親がホールラディッシュの瓶詰めを販売していたのを手伝ったのがきっか
けだという。現在、世界中で販売されているハインツのケチャップのボトルには、ハインツの創
業年は1869年と記載されている。つまり、ヘンリー・ジョン・ハインツは、25歳のときに
今の会社を立ち上げたことになっている。しかしそれは正確ではない。1873年5月の金融危
機のあと、当時のヘンリーの会社は倒産してしまったからだ。1873年から1896年まで続
いた大恐慌の影響だ。だが、ヘンリー本人と周囲の人々は、この事実を隠そうとした。ヘンリ-
が死去した直後の1923年に出版された公式な伝記、『ヘンリー・ジョン・ハインツ自伝』に
もそのことは記されていない
[2]。現在のハインツ社は、1876六年にヘンリーが二度目に
立ち上げた会社なのだ。

 [2]  E.D.Mc Cafferty, Henry J. Heinz, New York, Bartlett Orr Press, 1923,



その一年後、ヘンリーは33歳で、保存食品の缶詰を工場で生産しはしめた。そのためには、た
くさんの従業員を雇用しなければならない。だがそのとき、ヘンリーの脳裏にはストライキに対
する大きな恐れがあった。1877年夏に発生したばかりの鉄道の大ストライキがトラウマにな
っていたのだ。とりわけ、7月19日から30日にかけて多くの死傷者を出した大暴動、いわゆ
る「ピッツバーグ・コミューン[3]」に大きな衝撃を受けた。この鉄道ストライキは、賃金カ
ットと雇用削減に抗議して鉄遊民が行なったもので、貧困に苦しんでいた一般市民の大きな共感
を集めた。初期のマルクス主義団体のひとつ、労働者党も支持し、一部の町では同党が扇動した
とも言われている。ウエストバージニア州マーティンズバーグで始まった後、他の州にもどんど
ん波及していき、最終的には10人以上の労働者が参加した。もはや労働組合ですら、この騒動
を鎮めることはきなかった。シカゴ、ピッツバーグ、セントルイスなどの町は、ストライキ参加
者によって支配された。一週間もの間、西海岸と東海岸をつなぐ鉄道は運行が停止された。国の
機能は麻抑し、経済は停滞した。

 [3]  ・ A People's History of the United States, New York , Harper Collins 1980.(「民衆のアメリカ史-149
2年から現代まで』ハワード・ジン、猿谷要監修、富田虎男、平野孝、油井大三郎訳、明石書店))、
A BRIEF HISTORY OF COOPERATIVES IN THE PITTSBURGH AREA , John Curl , Grassroots Economic
Organizing

 Wikipedia

アメリカにとって、これは史上初の「赤の恐怖」たった。パリ・コミューンからわずか6年後、人
々の心にはまだそのイメージが生々しく残っていた。残忍な暴力、暴徒による破壊行動、南北戦
争を思いださせる警察と労働者の争い………当時の新聞には、「アナーキストたちはこのままこ
の国の実権を握ってしまうのか?」という文字が躍った。
1877年7月25日、マルクスはエングルスに対してこう手紙を書いている。
「きみは、アメリカの労働者たちについてどう思う?資本主義社会の支配者に対する、南北戦争
以来初の蜂起だ。結局は鎮圧されてしまったが、アメリカに本物の労働党が誕生したのは注目に
値するね[4]」

[4] Marx and Engles on the Trade Unions, édité par Kenneth Lapides,New York,Praeger, 1986.

この暴動は、政府が派遣した連邦軍の武力によって制圧された。だがそれによってたくさんの犠
牲者が出た。メリーランド州、ペンシルベニア州、イリノイ州、ミズーリ州では、多くのストラ
イキ参加者が命を失った。ピッツバーグだけで61人が亡くなった。ヘンリー・ジョン・ハイン
ツは、自らの日記にこの事件の詳細を記録している。こうした暴力沙汰が続くなかで、資本家に
戦いを挑むストライキ参加者たちが、一般市民に支持されていることに不安を感じていたのだ。

『ヘンリー・ジョン・ハインツ自伝』の著者、歴史家のクエンティン・R・スクラベックは、わ
たしの取材に対してこう言った。
「ヘンリー・ジョン・ハインツは、物事に深くのめりこむタイプでした。多くの経営者が、労働
者を搾取し、ストライキを力づくで抑えるのが当たり前だと思っていた時代に、もっとうまくや
れる方法があるはずだと、ずっと考えていました。本人が庶民の出というのもあったのでしょう。
資本家と労働者が争わずにすむ会社を作りたいと思ったのです。そして、現在はマネジメント"
と呼ばれている経営管理方法を、当時、自分で考えだしました」

マルクス主義がもたらす災い、いわゆる「赤禍」を避けるためだ。清教徒であり、衛生学者でも
あったヘンリー・ジョン・ハインツは、経営者が労働者の利益を守る会社を作りたいと考えた。
のちに言う「パターナリズム(家父長主義)」だ。そして実際、ヘンリーの工場はその典型とな
っていく。彼の「経営上の」変革は、先駆者たちの「科学上の」変革と同じように、世界の産業
史に重要な意味をもたらしたのだ。

6.アメリカ、ペンシルベニア州ピッツバーグ。ハインツ原史センター
自動車メーカーのフオードが、標準化された車をアセンブリーラインで組み立てはじめる前から
ハインツはトマト味のベイクドビーンズの缶詰をピッツバーグエ場でライン生産していた。作業
員の仕事は絹分化され、多くはすでにオートメーション化されていた。缶詰に蓋をする機械の「
巻き締め機」は、1897年に導入された[5]。ライン生産方式の早期導入で知られる、あの
T型フオードより11年も前のことだ。

[5] Quentin R. Skrabec,H J, Heins, A Biography ,McFarland,2009.

ハインツ歴史センターの資料室には、1904年に撮られた写真が何枚も保管されている。
そろいのユニフオームを着て、生産ラインで働いている女性労働者たち。ラインの上にケチャッ
プのガラス容器が載っているのが見える。1905年、ハインツのケチャップ生産量は100万
個だったが、その2年後には1200万個に急増した。フオードがT型フオードのアセンブリー
ラインにベルトコンベアを導入するより前に、ハインツの工場では「コンベア」が動いていた。
缶詰が入った金属製のカゴが、熱湯の入る高温滅菌装置に向かって、自動で移動するレールに載
って運ばれていたのだ。

1903年、マイケル・ジョセフ・オーウェンが「自動製瓶機」を開発・販売すると、ハインツ
はすぐに導入した。ガラス容器を自社生産する初の企業のひとつになり、より機能的に大量生産
をするようになった。それまでガラス容器の購入コストがかさむせいでトマトケチャップなどの
商品価格を下げることができず、売上がやや伸び悩んでいた。オーウェン式自動製瓶機のおかげ
で、ケチャップのガラス容器にかかるコストを18分の1まで削減できたのだ。工場のエネルギ
ー源を最新化させたおかげで、自動製瓶機を使えるようになったことも忘れてはならない。ハイ
ンツのピッツバーグエ場では、かなり早い段階から石炭ではなくガスが使われていた。アメリカ
でもっとも早く電力を利用しはしめた会社のひとつでもあった。その数年前の1989年、エン
ジニアのフレデリック・ウィンズロー・テイラーが、ペンシルベニア州東部の製鋼大手、ベスレ
ヘム・スチールのコンサルタントに就任した。そして自らが考案した「科学的管理法」に基づい
て、生産に関わるすべての仕事の見直し、作業の分割、各工程の改善を徹底的に行なった。こう
した管理法の理念、いわゆる「テイラリズム」は、ピッツバーグの製鋼会社でもすぐに導入され、
その後、製鋼業以外の多くの工場でも取り入れられた。そのうちのひとつが、ハインツのピッツ
バーグエ場だ。ハインツは、工場のオートメーション化を進め、ベルトコンベアを使い、生産力
を改善させた。

ここで、ひとつの疑問が浮かんでくる。もしかしたらハインツは、近代生産方式のパイオニアと
されるあのフオードよりも進んでいたのではないか?

作業員の動作にかかる時間をストップウオッチで計測し、無駄な動きをなくし、作業時間を徹底
的に短縮させる。こうした「科学的管理法」が導入されたことで、ハインツの生産量は急速に増
加し、それに伴って商品の原価率も下がった。ハインツは、テイラリズムによって合理的な労働
の組織化を行なった、最初の食品メーカーだった。アメリカにおける大量生産のパイオニアだっ
たのだ。
1905年、ハインツはイギリスに初の海外工場を設立した。1896年にはすでにイギリス市
場に進出していたが、これからは製品を輸出するのではなく現地で生産することにしたのだ[6]。
1903年にロンドンで撮られた工場の写真には、イギジス風の建物のフアサードに、大きな字
でこう書かれているのが見える。

[6] Eleanor Foa Dienstag, In Good Company : 125 years at the Heinz Table, op, cit.

「アメリカのハインツ57種のトマト製品」

1907年、ハインツの年間投資額は、アメリカの食品産業全体の5分の1を占めていた[7]。
そして1910年、トマト缶など缶詰商品の年間生産量は4000万個、ケチャップなど瓶詰商
品は2000万個になった。海外にも商品を流通させたハイyツは、アメリカでもっとも重要な
グローバル企業に成長した[8]。

[7] " The Story of  Pittsburgh and Vicinity"  Pittsbursh, The Pittsburgh Gazette Times, 1908.
[8] Quentin R. Skrabec, H. J. Heinz, ABiography, op. cit., p. 198

1908年、フオードがデトロイトエ場のアセンブリーラインでT型フオードの生産を始めたこ
ろ、ハインツはすでに電化された生産ラインを備え、電話も引いていた。当時はまだ、アメリカ
で電話はほとんど普及していなかった。



自動車メーカーのフオードが、テイラーの「科学的管理法」、いわゆるテイラリズムに基づいて
独自に開発したシステムは現在、一般的に「フォーディズム」と呼ばれてよく知られている。だ
が、ハインツはフオーディズムより先に、徹底したテイラリズムとライン生産に基づいたマネジ
メントシステムを作りあげていた。

ハインツ式マネジメントの一番の特徴は、そのパターナリズム(家父長主義)にある。会社が定
めた規律にしたがって行動をしている従業員には、高額な給与が支払われる。しかも、就業中だ
けでなく、プライベートでの行動も含まれていた。たとえば、工場の近くには、スポーツジム、
屋外運動場、プール、会社が選んだ本や雑誌を置く図書館があった。従業員には、こうした施設
を利用して、体力や知識を身につけることが要求される。清教徒である経営者と同じような価値
観を持つよう、指導・教育されていたのだ。読むのにふさわしくないと経営者が考えた書籍は、
図書館には置かれなかった。余暇を楽しむための公園さえあった。公園には、経営者がフロリダ
旅行の際に購入したワニが飼われていた。



すべては、労使間の争いを回避するためのアイデアだ。ヘンリー・ジョン・ハインツのパターナ
リズムは大成功だった。20世紀初め、ハインツのライバル会社であるキャンベルース-プも生
産管理を行なっていたが、取り入れた理念は「テイラリズム」ではなく、イギリス流のより厳格
に労働者を管理する「ビドー方式」だった。だが、作業成績によって労働者をランク分けする徹
底した合理主義のせいで、労使間の争いが絶えなかった。労働組合は、労働条件の改善を求めて
大規模な抗議活動を行なった[9]。それを抑えるために経営者側が暴力的な手段に訴えたため、
ますます労働者の反発は大きくなった。

[9]  Daniel Sidorick, Condensed Capitalisn : Campbell Soup and the Pursuit of Cheap Production in the
Twentieth Century, Ithaca(NY), HR Press, 2009
.




ハインツにはこうした争いはまったく起きなかった。キャンベル・スープは労働者にためらうこ
となく「ムチ」を振るったが、ハインツは決してそうはせず、逆に「アメ」を与えつづけた。パ
ターナリズムに基づいたやりかただ。会社に忠実な、「品行のよい」従業員に高い給与を支払う
ことで、ハインツは成功した。これは、のちにフォードが規則を守り仕事ができる労働者に、業
界平均より高い「日当5ドル」を与えたのに先んじている。おかげで優秀な人材が長く勤めるよ
うになり、消費能力が上がったことで自社製品を買える従業員も増えた。

1890年代初め、ハインツは社内に「社会学部」を設立した。労働者について研究し、心理的
なアプローチをマネジメントに取り入れるための部署だ。のちにフオードが行なったやりかたと
まったく同じだ。さらに、工場の精鋭部隊「ピックルアーミー」も設立された。信頼できる従業
員だけで構成された特別部門で、ほかの従業員を教育し、工場での規律、節制、品行方正を管理
する役割を担っている。こうした努力の結果、ハインツは、労使紛争が頻発した時代に一度もス
トライキが起きなかった会社として、業界で注目を集めるようになった

起業家/経営者も色々、ピンキリをお温習いさせてていただくこととなった。

                                     この候つづく



【下の句トレッキング:君を君打つわれをわれ打つ】

わが住むは醜き部雨ふればニコライの塔泥に泳げり

都をば泥海となしわが子らに気管支炎を送る秋雨

わが家のこの寂しかるあらそひよ君を君打つわれをわれ打つ

与謝野晶子  『春泥集』

 

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