極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

体力復元強化週間 ①

2024年02月14日 | 能登半島地震



 彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招き雷雨から救ったと伝えら
れる"招き猫"と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え。(戦国時代の軍団編成
の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編のこと)の兜(かぶと)を合体さ
せて生まれたキャラクタ「ひこにゃん」。

             椿咲く きみの名残る 浜辺かな
                                                   

                                         
【ルームランニング記;変更


・歩行距離 1キロメートル以上/回➲2キロメートル
・歩行時間 15分以内/回➲30分前後
・歩行速度 最大6(平均4.5~5)キロメートル/時間➲4.5キロメー
      トル/時間

・歩行斜度 最大10%×百メートル以上(平均 体調に合わせ任意)➲3%
・歩行歩数 2千~3千百歩/回➲4千歩
・ストレストレッチ体操 励行(努力目標:3回/日)➲体調により変更


【お粥文化考 ①】

昨年の夏以降、過酷なデスワーク、運動不足や深酒が祟り、睡眠不足、眼精疲労、
視力低下、慢性胃腸炎、自律神経衰弱とうの症状を覚え、約1ヶ月ほど自発的な
療法を試みていた中で「お粥摂食療法」「疲労回復屋内でのトレッキング・ウォ
ーキング」を行ってきて何とか回復の兆しが見えてきた(近親者、知人の弔いに
による気鬱症のダメージが尾をひくなか、「お粥摂取事業」のフィッシュボーン
に至る。

【お粥食文化概史】
中国のおかゆの歴史は6千年。日本の「おかゆ」史をたぐる。 お米が日本に渡っ
てきたのは、紀元前1世紀。そのころの調理法は、「蒸す」と「煮る」の2種類で、
蒸したものが今の「おこわ」、煮たものが「おかゆ」だったが、紀元前1世紀ごろの
「おかゆ」は、今のおかゆより、堅く炊かれていて現在で言う「ご飯」。時は流れ、
平安時代ても、日本人のお米の食べ方は、この「堅く炊かれたご飯=おかゆ」が主
流。11世紀を迎える頃には「ひめがゆ」「しるがゆ」という、「おかゆ」が文献
にも登場。「おかゆ」は、千年以上にも渡り、日本人に食されてきた、このころは
白米を煮た「白がゆ」のほかにも「粟・ひえ・麦」なども「おかゆ」にして食べられて
いる。芥川竜之介の「芋かゆ」に描かれた 平安時代の「芋かゆ」は、ヤマトイモを
煮込んで作られた「おかゆ」。この頃は、お米以外のものを煮込んで「おかゆ」を味
わっていた。


胃腸の調子が悪くて食欲がない」
なんて時に ニラ粥

江戸時代になると関東では おかゆ=白かゆ=病人の食べもの、というような感
じになる 関西では おかゆ=朝食というように、それぞれの地方によって変化。
この変化にはご飯を炊く時間にも一因があった。 関東は朝にご飯を炊いて朝・
昼と食べ 夜はそのまま、または、お茶漬けにして食べていたが、関西は昼にご
飯を炊いて昼・夜と食べ 翌朝は残りのご飯をおかゆにする風習があった。民俗学
的には —— おかゆは年中行事など、晴れの日の食事として意味があった。その一
つは、無病息災を願って1月7日に食べる七草かゆ。奈良時代には、すでに日本に
伝わる。1月15日には小豆かゆを炊いて、これに先端をいくつかに割ったかゆ箸
とよばれる木の棒を入れて米の付き具合で豊凶を占う、かゆ占(かゆうら)が
行われていた。

 
 黒の革命 


 

Anytime Anywhere ¥1/kWh era

【再エネ革命渦論 199 アフターコロナ時代 186】
 技術的特異点でエンドレス・サーフィング 





  風蕭々と碧い時間
2000年10月18日
愛のカケラ Every Little Thing 
作詞・作曲/持田香織、多胡邦夫


【今朝の備忘録】

 

● 今夜の寸評 :  鈍すれば貧する
           賢明でなければ豊かになれない。

 

 

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