今、色々な趣味を持った人たちのクラブに入会したのだが、まさに様々な人たちが居て
大いなる刺激を受けている。老若男女だが、全般に高齢者が多いようだ。
みんなセカンドライフをいかに有意義にすごそうかと、あれこれチャレンジして意気軒高である。
その生きざまの報告やら日記に、会員たちから拍手や励まし、共感のコメントなどが届き、
コメントがなくても、見た足あとだけを付けて行く人もいて、にぎやかだ。
その様子が、心さびしき人たちの癒しの種にもなっているようである。それぞれ会員たちの自己紹介の
欄があって、中に一番したいことというとこに、「燃えるような老いらくの恋」などと書いている
人が居た。見れば女性とある。「へ~高齢の女性でもこんな想いを持ったりするんだ」と感心した。
というのも、煩悩のかたまりのような野郎どもと違って、女性は一定の役割を終えると、恋の必要性は
無くなり、男などといううっとうしいものから解放されたようにせいせいして見えるからである。
だからわたしは、女性はもはや精神性で異性に接すると思いこんでいたのだ。燃えるような…などと
言われると、精神性だけに収まらないような気がするではないか。まあ、それはそれで大変よろしいかと
思うのだが。(笑)
いずれにしろ言いたいのは、この恋心のことである。わたしが最も避けたいのは加齢するごとに荒涼たる
砂漠のような心になってしまうことなのだ。潤いのない心、ひいては潤いの無い人生なんかまっぴら
なのである。
例え砂漠化が進んでしまった心にでも、小さな泉をたたえたいのである。そしてそこに密やかでもいい、
一輪のうすくれないの花を咲かせたいのである。
これは、よぼよぼのジジイになっても持ち続けたいのだ。
潤い…これこそ、まさに恋心ではないだろうか。素敵な異性に出会い、相手を尊敬し、その人生を
尊重し、敬意を持って接する。そこに心身の潤いが生まれるのではないだろうか。全身の細胞が活性化し、
瞳は潤み、やわらかな笑みをたたえるようになる。そして若き日に味わった、ときめきと切なさを再び
湧きあがらせるのである。
ここで大切なのは「心」というところなのだ。たまたま出会って素敵だと思った女性が、その筋の人の
愛人だったということもあり得る。しかしいかなる身分、いかなる立場の人にでも心は自由に通わせれるのだ。
心は自由である。そしてその心の想いは通じるのである。…とわたしは信じているのだ…。
☆このブログはそのクラブの会員からも自由に見れるようになってます。