"2019年3月31日(日)
二日目、
08時41分、
引田城の港側登山口を通過し
田の浦方面へ向かう。
この山の上に城跡がある。
城山の西側だけが、陸続きだが、
低湿地だった。
それ以外の三方が海に囲まれた岬の上という要害の場所です。
田の浦海岸。
上天気で良かった。
キャンプ場があり、何組か利用されてた。
ここがキャンプ場側登山口。駐車場もある
667年、引田氏が築城した。
天智天皇6年なので、高松の屋島城とともに瀬戸内海の防衛上の役割があったようです。
その後、戦国時代に
四宮右近が城主となって城を大改修し、城下町も整備した。
三好氏・十河氏と対立。
1571年、三好長治に攻められ、
家臣の矢野氏が入った。
この矢野氏は、前日訪ねた阿波府中の矢野城の矢野氏です。
その後、十河氏、仙石氏、長曽我部氏が争い、
再び入った仙石秀久が、城の大改修をした。
現在の城の遺構は仙石氏時代のものかも?
1587年、秀吉の四国統一で、
讃岐国城主となった生駒親正が入城
。
生駒親正は讃岐聖通寺城を本拠とし、
引田城を讃岐・阿波国境を守備する城として維持した。
江戸時代、廃城。
09時00分、
いざ、登山開始!
09時04分
『北曲輪』
細長い曲輪で、丹後丸と呼ばれる
突き当たりの分岐
左へ行くと麓の田の浦キャンプ場へ行ける階段があるが、
現在通行止め。
崩落があったのかな?
右へ向かう。
尾根道を行くと前方にシートあり!
09時10分
『北二の丸』
石垣に囲まれた曲輪で、城内では一番重要な場所。
御殿があった。
石垣は上下段に分かれる。
石垣構築技術が未熟なので二段に分けたのか?
それとも防御の構造のためなのか?
下段石垣(約5m)を見る
自然石を積んだだけの野面積み。
地元産出の和泉砂岩、礫岩が使われてる。
上段石垣はシートで覆われてる。
災害で崩れたのかな?
石垣の写真の説明によると隙間に間詰石を用いて、算木積みのようです。
石垣の高さは低い(約3m)が大きな石が使われた。
シートの隙間からはみ出した石垣を見る
上段石垣は、新しい時期に造られたのか?
時期的には、天正期後半~文禄期の特徴があり香川県内では最古の石垣だと言われる。
となると、仙石氏か生駒氏どちらかの築造ですな。
北二の丸と南二の丸を分離する堀切?
広い曲輪です
斜面には崩れた石垣が残されてる。
これにより、曲輪全体が石垣で囲まれてた、とわかる。
↑ここに大手門があったとか?
↓下の道が大手道?
30分ほど二の丸を見て回った"
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
天皇・皇后両陛下が平成最後の伊勢神宮参拝をされた。
テレビを見てると、
天皇と皇后、別々に参拝されてる。
なんで、一緒じゃないの?
と、思ったら、
母が、
お伊勢さんは、夫婦やカップルで参拝してはいけない!
と、言う。
えー~!
これは知らなかったぞ!
一緒に参拝すると、別れることになるとか?
いやぁ、びっくりポンや!
ま、独り者の我が輩には関係ないけどね。
馬《●▲●》助ヒヒーン