馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

『阿波勝瑞』その16 【 勝瑞城跡】

2019-04-25 16:52:34 | 阿波国の史跡
2019年3月31日(日)
二日目

"吉野川は、江戸時代に改修されるまで、旧吉野川が本流でした。
その支流として、中富川があった。

一向一揆の反撃のために惨敗した三好元長の死から約50年後、
1582年、十河存保(三好実休の子)が城主の勝瑞城に長曽我部軍が侵攻、
中富川をはさんで対峙した。
十河軍5000に対して長曽我部軍は25000。
善戦するも退却を余儀なくされて
勝瑞城に籠った。

吉野川が天然の堀で、しかも周辺は低湿地ということで、長曽我部軍なかなか攻められない。
長期戦となったが、秀吉の援軍を得られないので、ついに存保は城を捨てて逃げ、落城しました。

その後、勝利した長曽我部元親は四国を席巻したが、ご存知のように秀吉の四国遠征で、降伏することになります

館跡遺跡から



城跡へ向かう

十河存保が
防御に耐えられる城に改造した曲輪の跡ではないか、と推定されてる城跡が
『見性寺』に残されている。



門柱の文字がちょこちょこ消えかけてるが、
「西国守護三好長治公一族菩提所」と書いてある。

周囲に大きな堀があります。


水堀に囲まれた寺です。

境内に入る


これは、土塁に見えます。




回りこんで見ると
矢竹に囲まれてる。

矢竹の解説文




その外側にも水堀

勝瑞城の解説文


室町時代に阿波守護の細川氏が守護をここに置いたのが始まり。

1507年、管領細川政元が暗殺された。
1553年、三好義賢(実休)が謀反を起こし、阿波の実権を握る。
そして、
1582年、長曽我部元親が侵攻し、廃城となった。

中世は、山城が多いなか、
平地の城跡として貴重だという理由で、
2001年、国史跡に指定されました。

背後の低い土塁。

発掘調査では、
土塁の高さが約2.5m
幅は、上部で約14m

現状は低い土塁に見えるが、堀底からの高さは大きかったようです。


実はこの見性寺の城跡は、
長曽我部軍が迫ってきたので、城主の十河存保が防衛上あらたに築いた曲輪跡ではないか、と推測されてます。


『三好家霊廟』


合掌。

"『勝瑞義家碑』


解説文によると徳島藩の儒官、那波魯堂の筆蹟として貴重だ、と書いてある。
というか、勝瑞義家て誰や?
初耳なので、ネットで調べたが、さっぱりわからない。
三好義家のことかな?
と、思ったが、これまた不明。
三好氏系図にも出てこない。

で、よ~く見ると
義家じゃなくて、「義冢」

そうなんです!
しょうずいよしいえ、と読んではいけない!

【勝瑞義冢碑】
これが正解。
「義冢」、ぎちょう、と読む。
冢は、塚のことで、
無縁塚という意味。
つまり、勝瑞城に関わった人の無縁塚の石碑、なのです。

いやぁ、また一つ勉強になりました"



外から堀を見る"


"少し離れた所にあるshellの武田石油でスタンプ押しました。



徳島ラーメン屋さんの自販機

食べたいが、列車の時間せまってるのであきらめて、
近くのコンビニでパン買った


13時29分、
勝瑞駅に戻った。

それにしても、百名城の探訪で
わずか40分弱の時間で済むとは!

これまでの最短時間となった。

なんで、ここが百名城や!
徳島県には他にもっといい城跡ないのかい?

と、言われそうですが、

細川・三好氏の本拠の城という歴史的価値で、百名城に指定された、
と、理解しましょう…




その17に続く

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

デジカメが壊れてからは、ずっとスマホで撮影してるが、

やっぱりデジカメが欲しくなってきた。

調べてると、目移りしてなかなか決まらない。

それにしても、デジカメはピンからキリまで、色々ありすぎ。

なによりも高い!

一眼レフならまだしも

普通のデジカメは、スマホの画像とあまり変わらないのに、 10万円ぐらいするものもある。

それを考えると、スマホは高い買い物ではないと思えてくる…

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

先頃、ドコモが新料金を発表しました。

本体代金と分離したので毎月の料金が安くなると言ってますが、

ホンマかいな?

新料金になるごとに毎月の支払い金額が増えてるんですが…


馬《●▲●》助ヒヒーン♪


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする