春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「ちいちゃんとチイちゃん」

2012-05-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/05/18
ぽかぽか春庭十二単日記>我が母の記(2)ちいちゃんとチイちゃん

 5月13日の母の日、娘はお得意のチーズケーキを焼いて、姑のところへ出かけて行きました。私の母の日プレゼントの金一封と、娘が「お父さんもおばあちゃんに親孝行しなくちゃね」と、無理矢理出させたお金で扇風機を買うことになり、おばあちゃんを電気屋へ連れて行くためです。
 チーズケーキは、血糖値コントロールで市販のケーキを控えている姑のために、「パルスイート」という甘味料をつかって作るので、姑にも食べられます。おみやげの分は、ハート型にかわいらしく焼けました。

 息子は大学院の地理学フィールドワークがあり、玉川上水の見学に出かけたので、13日の姑孝行は、タカ氏と娘だけ。私も、授業準備が間に合わないから、パスして、娘の作ったバナナケーキを食べながらお留守番です。
バナナケーキとチーズケーキ  

 ケーキを食べながらつらつら思うのは、母業卒業後のこと。
 子育てが一段落ついたと思ったあと、母たる者、どう過ごすべきか。
 空の巣症候群に泣き、「人生むなしい」と嘆く人もいるし、子離れできずにヨメさんと息子を巡って 争奪戦を繰り広げる人も。気に入らぬヨメが出て行こうもんなら「やっぱり息子はわたしのもの」と、凱歌を上げる。母業卒業式に臨むのも、それなりに覚悟と準備が必要みたいです。

 私の母は、「末娘が高校を卒業したら、恵の園に行って、お手伝いをする」と言って、園長さんにも面会してボランティア参加の約束をしていました。「恵の園」は、市内にある障害者支援施設です。
 「園長さんに聞いたら、教師とか看護婦さんなんかの資格を持っていない人でもできる仕事がいっぱいあるって」と、三女(私の妹モモ)の高校卒業を前に、「子育て卒業後」の活動に希望を持っていたのです。それが、三女モモの卒業式の日がお葬式となってしまいました。55歳での急死でした。

 「恵みの園(障害者支援施設)でお手伝いをする」ということのほか、私の母が「子育て卒業後の目標」に決めていたことのひとつが、「新聞に載った俳句や短歌をじ作品集としてまとめて自費出版する」ということでした。
 母の早世で、私がすっかり生きる気力も無くなっていたとき、母に句作をすすめた叔父が「チイちゃんの作品集をまとめよう」と、言い出しました。
 「3回忌には皆に配ろう」と2年間、本の編集を続け、それでようやく私は生き続けることができたのです。「母の本を出す」という目標がなかったら、「家族みなで」は無理としても、私一人あとを追っていたでしょう。

 自分が母となってみて、ようやく私は「子育て後にしたいこといっぱいあったのに、何もできないうちに死んでしまって、かわいそうなお母さん」と思わないでいられるようになりました。
 たしかに、孫をひとりも見ることなく55歳で亡くなった母は、早すぎた死でしたが、母の55年の人生は、「何もしたいことができなかった一生」ではなく、「子を産み育てる、母としての充実した一生」を全うした生涯だったと思えるようになったからです。
 長短はあれ、母は母で、俳句を作り、歌を詠み、野菜や鶏を育て、近所の人を助け、人々から慕われる人生でした。

 ずっと郷里で暮らしている妹は、母の死後40年もたつのに、「あれ、アンタは、シズエさんの娘さんかね。シズエさんにはえらいお世話になって、、、、」と、多くの人に声をかけられてきたのだといいます。母を覚えていて、心の中で手を合わせてくれている人がたくさんいるのだと思うと、母の子として生まれたことを誇りに思えます。

 「小さいねえちゃん=チイちゃん」として、幼い頃から弟たちの世話をして、大人になってからも周囲の人の手助けを続けたチイちゃん。静栄さん。
 母の弟たちは、一番上のアヤ伯母を「アヤちゃん」と呼び、二番目の母を「小さい姉ちゃん」と呼んでいました。「小さいねえちゃん」が縮まって「ちいちゃん」になったのです。

 アヤさんは長女ですけれど、子どもの頃は、家から一歩出るとひとことも話ができない場面緘黙症でしたから、自然とシズエさんのほうが弟たちにとって「ねえさん」となり、アヤさんは「家族みなで守ってやるべき存在」となっていました。大人になって他人とも話ができるようになっても、アヤさんは90歳で死ぬまで、「守ってやるべき存在」として皆にいたわられつつ一生を全うしました。

 私の姉と妹は、母に似て、人助けが大好きな世話好きな人に育ちましたが、私はアヤ伯母のほうの遺伝、人との交流が苦手な性格を受け継ぎました。
 私の子ども達のうち、息子はアヤ伯母や私と同じ、「人間関係形成不全」な性格です。娘は、小さい頃から人の世話をよくするほう。

 保育手帖に書かれた保育園の先生の記録によると。給食を食べるときなど、先生のお手伝いを引き受けていて、先生から「チイママさん」と呼ばれているのだと記録帳に書いてありました。娘が1歳11ヶ月で1歳児クラスに入園したとき、同じクラスの早生まれの1歳児たちは、まだおむつもとれない赤ちゃん。娘は入園してすぐに満2歳になって、一人前におしゃべりできるし、早生まれのクラスメートの「お世話係」になっていたのです。満2歳ですでに「人のお世話が大好き」だった娘。

 娘は、幼い頃から「働く母」を助けて、弟の子守りを引き受けてきました。5歳半、年が離れているので、小さい頃、弟は姉に絶対服従でした。小学校4年生になると「お迎えに行く人」として保育園に認められたので、お迎えに行くのも、母が仕事から帰るまで公園で遊ばせているのも、娘が引き受けてくれました。母親がわりに息子の世話をしてきたのです。
 私が修士論文を書かなければならないとき、9歳の娘は、私にひとつひとつ手順を教わりながら、夕食作りも引き受けました。電気釜に米をしかけ、おかずと味噌汁の出来上がりまで2時間もかけて一食分つくりあげました。「小さいママさん、ちいママだね、チイちゃん!」とおだてて、ちいママさんは、料理好きに育ち、今、わが家の夕食係です。

 このごろの娘の料理、ちょっと手を掛けるときは60分、手抜きのときは20分で夕食を仕上げます。ときには、デザートのケーキも手作り。りんごがあるときはアップルパイ、チョコがあるときはチョコレートケーキ、焼き菓子がお得意です。シフォンケーキとシュークリームは苦手なので、市販品を買います。

 娘のチイちゃんは、ときどきかんしゃくを起こすチイママさんです。私が安売り大好きで買い物してくると、「冷蔵庫がいっぱいだから、いろいろ買ってきちゃダメって言ったじゃないの。安売りしているとすぐ余分なもの買うんだから、もう。買ってきたものは、自分で始末してね」と怒ります。

 「自分で買ったものは自分で始末」と言われ、挽肉を肉団子にして肉団子スープに仕立てようとしたのだけれど、見事に失敗。肉団子のつなぎに、卵&ジャガ芋すり下ろしにしたものを使いました。新聞にそういうレシピが掲載されていたので。つなぎの小麦粉を控えめにしたところ、全部煮崩れて肉団子スープじゃなくて、ただの挽肉どろどろスープになりました。自分の買い物を自分で始末するのも「ヨイジャーありゃしねぇ(容易ではない、という意味の上州弁)」

 娘を「チイちゃん」と呼ぶとき、私の母も「ちいちゃん」と母の弟や近所の人から呼ばれていたことを重ね合わせて、ふたりのチイちゃんに挟まれて、私は幸せ者だなあと思います。
 天国に行って40年たつお母さん、今も大好きよ。
 そして、我が娘チイちゃんも大好きです。

<つづく>
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする