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ぽかぽか春庭「母のエッセイ、こどもたち」

2012-05-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/05/19
ぽかぽか春庭十二単日記>我が母の記(4)母のエッセイ「こどもたち」

 私と叔父とでまとめた母の作品集。
 母は、新聞に挟まれていた広告チラシを切って、裏をノートがわりにしていました。きちんと整理されていない句もあり、いつその句を作ったのか、年代がはっきりしない句が多かった。新聞に掲載された句は、切り抜きをしてお菓子の空き箱に入れてありましたが、掲載年月日が書かれていないものもありました。

 新聞社に問い合わせをすれば掲載日がわかったでしょうが、そこまでしなくてもと、春夏秋冬、四季別に句を並べる編集にしました。句会で発表した句や、エッセイなども加えることにしました。父の会社の「家族会広報誌」や、学校の「PTA新聞」などに頼まれて書いたエッセイが残されていたからです。
 四季別に句と歌とエッセイをまとめ、「静栄作品集」として、自費出版し、句会の仲間や三回忌にあつまった親戚に配りました。

 この作品集で唯一の悔いは、母の仲良しの俳句友達だったマツノさんに「母の思い出」を書いてもらったことです。母が「マツノさんは人柄がよくて、大好きな友達だけれど、俳句も文章も、とても下手」と評していただけあって、書いてもらった「母の思い出」はこれじゃ、ちょっと、、、という体のものでした。私が徹底的にリライトしました。マツノさんに「こういう形にしてのせたいのですが」と、おうかがいをたてたところ、マツノさんは、叔父がリライトしたと思って「まあ、こんな素敵な文になおしていただいて」と大喜びでした。
 そして、母の作品集は、「マツノさんが語る思い出の文がすばらしい」という句会仲間うちの大評判となったのです。巻末の「ごあいさつ」は、父が書いたということにして、やはり私が書きました。父に「土台を作ったから、お父さんが、これに自分のことばをつけ加えてよ」と渡したら、「もう、このままでいい」と、めんどくさがって、結局「静栄さんの思い出」も「家族からのごあいさつ」も私が書いてしまったのです。なんだかなあ。あとがきは叔父が「秋泉」という俳号で書いてくれました。

 巻頭は「こどもたち」と題された短いエッセイ。三人の娘をモチーフにしています。1961(昭和36)年に書かれたものです。
 以下、母のエッセイ『こどもたち』。
 長女(姉)、次女(私)、三女(妹)の個性の見きわめと、母としての思いを表現した文章です。
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 こどもたち
 「お父さん、この雪、坂下中降ったの」もうすぐ七才になる末っ子は、起きたばかりの父をつかまえて質問する。「うん、東京の方まで降ったんさ」
 見る限りが世界という幼児期から脱皮しなければならない小学一年生、ちょっと暗いかげりのあるこの子は妊娠中から授乳期にかけて試練にあった私の影響か、母としての責任を感ずる。
 私の子ども時代を再現させて、苦笑させる次女。理性に強く、情けにやや薄い感じである此の子には、此の子の長所をよくみて、それなりに伸ばしてやらなければならない。
 自分が子どもの頃、同じような場面にいった事と同じ事をすばずば言う子、いやでも知のつながりを考えさせられる。昔、持たざる者のひがみから「血統がいいからって」「毛並みがいいからって」と、暗に否定したものだが、こうも血のつながりを見せつけられたら、渋々でも肯定しなければならない。
 一番駄々っ子でやんちゃな長女、この駄々っ子が一番やさしい心情を持っているのは父親に似たためであろう。だが、内悪外善的な所はちょっぴり母の遺伝。わがまま一杯に育ったこの子には、自分を矯める力が足りない。長じての矯正は困難だ。幼児期の如何に大切かを見せつけられる。
 若い世代の調査で「秘密を話しやすいのは誰か」に対し「友人」が圧倒的に多いのには驚かされた。それ以来、母兼友人を心掛ける。二人でさんざんふざけた挙句「家のお母さんは本当にお茶目で困る」なんてせりふを残して自室に引き上げる。此の子は演出が多分にある母の気持ちなど御存じない。(1961年)

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 三女(妹)を39才で生むとき、ちょうどわが家を新築中で、母は父に命じられるまま、大工さんへのお茶出しや荷物の運搬を手伝い、ものすごくつらい10ヶ月だったことを後年語ったことがありました。妹は中学生になるまで体が弱く、昔は自家中毒と言っていた病気(現在は、周期性嘔吐症と言う。幼い子どもに嘔吐下痢などが続き虚弱体質になるアセトン血性嘔吐症)で、痩せこけ、病院通いが続いたのを、母は、妊娠授乳の期間中に十分に養生できなかったせいだと、ずっと自分を責めていたのです。

 長女について「わがまま一杯に育った」と書いているのも、母の後悔のひとつ。母の姉アヤ伯母に溺愛された姉は、欲しいものは何でも手に入り、買ってもらえないものはない、というふうに育ちました。

 私の父に「一人前の給料を取る働きもない人に長女を預けるわけにはいかない」と言われた伯母は、姉を養女にしたくて、一念発起で勤めに出たものの、親の家で暮らし続けている気楽さで、一円も実家に入れず、給料のすべてを姉の服やらおもちゃやらにつぎ込んでいたのです。祖母が亡くなると、家を継いだ母の弟(駅おじさん)の妻と折り合いが悪くなり、アヤ伯母は私の家に一室を建て増しして暮らすようになりました。台所を別に作り、自分の食費は自分で賄うことにしたのですが、そこは姉妹ですから、母は夕食のおかずはいつもアヤ伯母に分けていました。父がいないときはアヤ伯母も当然のようにうちのキッチンでいっしょに夕食を食べ、アヤ伯母には、姉をかわいがることが人生のすべてでした。

 母は、長女(私の姉)のことをいつも「一番、口が悪いけれど、一番心がやさしい」と言っていました。母にとっては、長女を取られたような気持ちが続き、姉が「ミヨかーちゃん」と「お母さん」の二人の母の間で複雑な心理を持ったこともあり、人一倍姉との母娘関係に気をつかっていたようすが、この文からもうかがえます。
 
 私は真ん中の次女なので、長女を贔屓する父親と、病弱な三女を大事にする母の間で「とにかく本さえ与えておけば手がかからない子」と思われて育ちました。乏しい家計の中からも毎月本だけは、学年別の雑誌や「少年少女世界文学全集」の類を買ってもらい、市立図書館に行けるようになると、一日に学校図書館から借りた本と市立図書館から借りた本を数冊ずつ読破するという生活でしたから、母に「理性に強く、情けにやや薄い感じ」と評されたのもわかります。

 なにかと言うと「叔父さんはそう言うけど、○○という本にはこう書いてあった」なんて生意気な口をきいて、遊びに来ていた叔父達をやっつけては得意になるような、嫌な子でした。叔父達には「じゃあ、お前は将来ハカセにでもなるんだな」と揶揄されていました。今、叔父達に「叔父さんが言っていた通りに、博士号をとりましたよ、私」と言いたいけど、銀行おじさんはとうに亡くなったし、駅おじさんは90近くなって惚けてきたというし。

 「ほっといても大丈夫」という家族内のポジションでも、私がそうグレもせず成長したのは、「本好きのお母さんに一番似ているのは私だ」という思いがあったからでしょう。高校生になると母といっしょに図書館の読書会に出席したり、母から「本を読み文を書く人として大成して欲しい」と望まれることに、生きて行く方向を見いだしていたからです。

 母が早世した後、生きる気力がなくなって、結局は父が望んでいた「女が働くには、教師が一番無難だろう」という方向で生きてきてしまいました。母が望んだ「大成」はしなかったけれど、「本を読み文を書くことを楽しみとする」という母の生き方は継げたのかな、と思います。

<つづく>
コメント (2)
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