2012/05/20
ぽかぽか春庭十二単日記>我が母の記(5)母の俳句「こどもたち」
『静栄作品集』から、母の俳句。子ども達を題材にした句をピックアップ。
長女:
・山の子に熟れし苺の幸ありて
・子等何を思うかと柿の花を掃ず(姉が思春期に入ると、今時の子は、何考えているんだかわからないと、よくこぼしていました。)
・青蛾とび娘は宿題の肌着縫う(姉は父に似て何事にも器用で、裁縫も料理も手早く上手でした。肌着を縫うのは、夏休みの宿題か何かだったのでしょう。私はパジャマを縫う宿題で、前身頃ばかりふたつ切り抜いてしまい、布が足りなくなった思い出があります)
・父と娘の何諍ふや寒の月(姉は、母とも父とも一番盛大に親子げんかをしていました)
・信じ合う夫と娘よ焚火濃し(姉は父に顔立ちや性格、手先の器用さが一番似ていて、父にとっては大切な総領娘でした。長女に婿をとりたかったのでしょうが、結局、末娘のモモとその婿殿と「サザエさん方式」でいっしょに暮らしました)
次女:
・土手の少女微動だにせず夕焼くる(私は夕焼け光景が好きで、よく西側の線路土手に上って夕焼けを見つめていました)
・雛納む縁遠き娘の細き面(私はまん丸い顔で、細き面じゃなかったけれど、そこは、母の脚色)
・梅雨寒や縁遠き子の薄き唇(私のことを少女のころから「縁遠き子」と決めていたみたいです。私は、「一生結婚などせずにお母さんといっしょに暮らしたい」と、ずっと言っていましたから)
三女:
・子の抱く土筆双手にあまる春
・煮てくれと子にせがまるる土筆かな
・合歓の花パッとせぬ子の参観日(妹は小学生時代虚弱児で、授業中手をあげるにも遠慮しいしいだと母が参観日のたびに言っていました。合歓の花のやさしい色合いは幼い頃のモモのイメージにぴったりです。今では太っちょの肝っ玉おっ母になってますけど)
・せがまれて女子ばかりの鯉のぼり(妹がほしがったので、父は毎年小さな鯉のぼりを物干し棹に立てて、鰯のぼりと呼んでいました)
・緑眩し仰ぐ初潮の末娘
・腹痛にゆがむ娘の貌初雷す
・ほうせん花はじけて吾子の飛びのける
・霜野辺にほほ赤き子や桑手鳴る(妹は冬になるとりんごほっぺになりました)
養蚕地方の桑畑。冬になるとひと株の桑を縄でくくりつける作業をして、ひとまとめにされていました。桑の枝を「桑手」と呼んでいたのですが、養蚕も下火になった今、桑手ということばは辞書にも見当たりません。でも、桑手平谷(くわてだいらだに)という地名や桑手神社などはありますから、「桑手」という語、かっては養蚕農家にはよく知られた語であったことでしょう。母の句になければ、私の頭の中の辞書にも、「桑手」という語はなかったことでしょう。娘の脳内辞書にはもちろんありません。
母から受け継ぐ語彙も、母の形見と言えるでしょう。
私を題材にした句が少ないみたいですけれど、新聞の地方欄、俳句コーナーに入選した句を中心にして編集した作品集なので、私を題材にするときっと落選していたのだろうと思います。
母の俳句は、地方の平凡な主婦の日常のひとこまを、拙いままにつむいだ言葉たちですから、「俳人」と呼ばれるような方達の句に及びもつきません。でも、こうして母のことばをときどきひもとき、読むことができることで、母を早くになくした欠落を埋めることができます。
私も拙いなりに、こうして自分のことばを残して置きたいと思うのは、娘と息子が母を偲ぶときにそのよすがになればいい、という思いもあってのことですが、娘は「母のブログに何書くのも自由だけれど、私を登場させるのは絶対にしないで。母は、子どもなんかいないっていう身の上にしてネットの中で存在するといいよ」と言います。
母の日に、娘が作ったバッグやケーキの写真に載せるのだって、「母が自分で作ったことにしなさい。私のことを出さないで」と言います。でもねぇ、娘が作ったことは事実だし。ウソは書けないでしょ、と、勝手に写真もUPしましたが、見つかったら叱られる。
「小さいねえちゃん」のチイちゃんは、私にはやさしい母でしたが、「小さいママさん」のチイちゃんは、母をいつも叱ってばかりいる娘なのです。
そこで春庭も母と娘を詠んで一首。
母に:
・故郷(ふるさと)の廃家の空の広く深く遠音に流るる桑摘み幻歌
・垂乳根の母が歌いし桑摘みの歌も廃れてバイパス通る
・母恋し還暦過ぎても母恋し母の背で聞く子守歌恋し
・最高の味は母の手打ちうどん、八宝菜とごろごろおはぎ
娘に:
・牧場の見学会で乳搾りしたことあった、、、、よね、母と娘で。
・娘の作るチーズケーキの甘き香は、二十歳のころの娘の香り
・母さんは幸せ者だね、姑(ばあ)ちゃんがヨメのこといつも自慢するから(と、娘が言う)
・娘の作るポトフー、ニョッキにラタトゥイユ、わけわからんけど「美味しゅうございます」
まあ、母の味も娘の味も、とにかく私は食べられれば幸せ。
<おわり>
ぽかぽか春庭十二単日記>我が母の記(5)母の俳句「こどもたち」
『静栄作品集』から、母の俳句。子ども達を題材にした句をピックアップ。
長女:
・山の子に熟れし苺の幸ありて
・子等何を思うかと柿の花を掃ず(姉が思春期に入ると、今時の子は、何考えているんだかわからないと、よくこぼしていました。)
・青蛾とび娘は宿題の肌着縫う(姉は父に似て何事にも器用で、裁縫も料理も手早く上手でした。肌着を縫うのは、夏休みの宿題か何かだったのでしょう。私はパジャマを縫う宿題で、前身頃ばかりふたつ切り抜いてしまい、布が足りなくなった思い出があります)
・父と娘の何諍ふや寒の月(姉は、母とも父とも一番盛大に親子げんかをしていました)
・信じ合う夫と娘よ焚火濃し(姉は父に顔立ちや性格、手先の器用さが一番似ていて、父にとっては大切な総領娘でした。長女に婿をとりたかったのでしょうが、結局、末娘のモモとその婿殿と「サザエさん方式」でいっしょに暮らしました)
次女:
・土手の少女微動だにせず夕焼くる(私は夕焼け光景が好きで、よく西側の線路土手に上って夕焼けを見つめていました)
・雛納む縁遠き娘の細き面(私はまん丸い顔で、細き面じゃなかったけれど、そこは、母の脚色)
・梅雨寒や縁遠き子の薄き唇(私のことを少女のころから「縁遠き子」と決めていたみたいです。私は、「一生結婚などせずにお母さんといっしょに暮らしたい」と、ずっと言っていましたから)
三女:
・子の抱く土筆双手にあまる春
・煮てくれと子にせがまるる土筆かな
・合歓の花パッとせぬ子の参観日(妹は小学生時代虚弱児で、授業中手をあげるにも遠慮しいしいだと母が参観日のたびに言っていました。合歓の花のやさしい色合いは幼い頃のモモのイメージにぴったりです。今では太っちょの肝っ玉おっ母になってますけど)
・せがまれて女子ばかりの鯉のぼり(妹がほしがったので、父は毎年小さな鯉のぼりを物干し棹に立てて、鰯のぼりと呼んでいました)
・緑眩し仰ぐ初潮の末娘
・腹痛にゆがむ娘の貌初雷す
・ほうせん花はじけて吾子の飛びのける
・霜野辺にほほ赤き子や桑手鳴る(妹は冬になるとりんごほっぺになりました)
養蚕地方の桑畑。冬になるとひと株の桑を縄でくくりつける作業をして、ひとまとめにされていました。桑の枝を「桑手」と呼んでいたのですが、養蚕も下火になった今、桑手ということばは辞書にも見当たりません。でも、桑手平谷(くわてだいらだに)という地名や桑手神社などはありますから、「桑手」という語、かっては養蚕農家にはよく知られた語であったことでしょう。母の句になければ、私の頭の中の辞書にも、「桑手」という語はなかったことでしょう。娘の脳内辞書にはもちろんありません。
母から受け継ぐ語彙も、母の形見と言えるでしょう。
私を題材にした句が少ないみたいですけれど、新聞の地方欄、俳句コーナーに入選した句を中心にして編集した作品集なので、私を題材にするときっと落選していたのだろうと思います。
母の俳句は、地方の平凡な主婦の日常のひとこまを、拙いままにつむいだ言葉たちですから、「俳人」と呼ばれるような方達の句に及びもつきません。でも、こうして母のことばをときどきひもとき、読むことができることで、母を早くになくした欠落を埋めることができます。
私も拙いなりに、こうして自分のことばを残して置きたいと思うのは、娘と息子が母を偲ぶときにそのよすがになればいい、という思いもあってのことですが、娘は「母のブログに何書くのも自由だけれど、私を登場させるのは絶対にしないで。母は、子どもなんかいないっていう身の上にしてネットの中で存在するといいよ」と言います。
母の日に、娘が作ったバッグやケーキの写真に載せるのだって、「母が自分で作ったことにしなさい。私のことを出さないで」と言います。でもねぇ、娘が作ったことは事実だし。ウソは書けないでしょ、と、勝手に写真もUPしましたが、見つかったら叱られる。
「小さいねえちゃん」のチイちゃんは、私にはやさしい母でしたが、「小さいママさん」のチイちゃんは、母をいつも叱ってばかりいる娘なのです。
そこで春庭も母と娘を詠んで一首。
母に:
・故郷(ふるさと)の廃家の空の広く深く遠音に流るる桑摘み幻歌
・垂乳根の母が歌いし桑摘みの歌も廃れてバイパス通る
・母恋し還暦過ぎても母恋し母の背で聞く子守歌恋し
・最高の味は母の手打ちうどん、八宝菜とごろごろおはぎ
娘に:
・牧場の見学会で乳搾りしたことあった、、、、よね、母と娘で。
・娘の作るチーズケーキの甘き香は、二十歳のころの娘の香り
・母さんは幸せ者だね、姑(ばあ)ちゃんがヨメのこといつも自慢するから(と、娘が言う)
・娘の作るポトフー、ニョッキにラタトゥイユ、わけわからんけど「美味しゅうございます」
まあ、母の味も娘の味も、とにかく私は食べられれば幸せ。
<おわり>