2012/05/22
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>ステップバイステップ日本語教師養成講座(1)一歩を踏み出す
金環日食、見えましたか。私は、ちょうど通勤の地下鉄の中で日食の時間になるので、こりゃ無理だと思っていたのですが、地下鉄からJRに乗り換える駅の出口で、大勢の人が空を見上げていたので、乗り換えを遅らせていったん下車しました。曇り空でしたが、雲をすかして大陽の形がはっきりみえました。
私がこんなにくっきりした日食を見るのは、1980年にケニアで見て以来のことです。ケニアのサバンナの中にあるボイという町へ日食見物に出かけ、美しいコロナに縁取られた皆既日食をみることができました。
30年前に大陽のリングを見たこと、私の今の仕事にも関わっているのです。日食を見たから日本語講師になった、というほど直接の関係ではないですが、ケニアに出かけたことが日本語言語文化研究の道につながったからです。
私が「日本語教師」という仕事について知ったのは、1979年、ケニアのナイロビに滞在しているときのことでした。
私は、中学校国語教師をやめたあと、演劇の勉強をしていました。民族芸能、演劇研究のフィールドとして、ほんとうはパプアニューギニアへいきたかったのですが、ケニアへ出かけました。従妹のミチコは、海外協力隊の一員。高校理科教師としてケニアの田舎のハイスクールに赴任していました。
ケニアでいっしょにすごしたタマちゃんは、獣医の資格を持っており、「海外協力隊でもどこからの派遣でもいいから、アフリカで獣医として働きたい」と希望していました。獣医の募集はごく狭き門でした。海外協力隊に派遣されるための職業として、獣医のほか、農業指導、ものづくりの技術指導、看護師、保健師、柔道指導などさまざまな職種があり、日本語教師という項目もあったのです。
帰国後、私は「国語教師をしていた経験があるのだから、日本語教師にもなれるんじゃないか」と軽く考え、広尾にあった協力隊の事務所へタマちゃんといっしょに出かけて行きました。しかし、日本語教師希望者のための試験問題をのぞいてみたら、「あらら、ぜんぜんわからない」という問題でした。日本語教師になるために一から学び直すのもたいへんだなあ、と思い、このときは断念。結局、ナイロビで出会ったタカ氏と結婚するという「人生の路」を選んでしまいました。この人生路がガタピシ泥んこ悪路であったことは、再三ぐちってきた通り。
私は娘が2歳になる少し前に、自転車で15分のところにある国立大学に新設された日本語学科に入学しました。
中学校の国語教師をやめて8年もたっており、おまけに入試には、何より苦手な数学の試験もあったので、合格するとは思っていなかったのですが、思いがけず、英語国語数学の1次試験、英語国語社会の2次試験に通りました。学科新設措置のため、センター試験終了後の臨時追加募集だったので、1次試験は15名の募集に対して600人の応募があり、足切りで200人が2次試験受験。その中から19名が合格しました。ほんとうに運がよかった。このときに運を使い果たしたとみえて、その後、宝くじはいくら買っても当たらない。
当時、夫の仕事はどん底で、食うにこと欠く毎日。1歳の娘を保育園に預けて働くといっても、保育園は待機児童でいっぱい。仕事に就いて、就業証明書を得てからでなければ受け入れない、と役所は言う。で、仕事先に問い合わせると、子どもの預け先がないなら、応募できないと言う。
せっぱつまって大学再入学を思いついたのです。大学に入って奨学金をもらおう、それで親子ふたりなんとか飢えずにすむだろう、、、、、。在学証明書が発行されたので、娘は保育園に入園でき、授業のない土曜日と夏休み冬休み春休みには夫の仕事を手伝いました。子育てと夫の仕事の手伝いと、日本語教師アルバイトを掛け持ちしながら、日本語学と日本語教育について学びました。一生涯で一番、体を酷使した時代です。娘をお風呂にいれても、自分の髪を洗う時間さえなかった。
日本語教師資格のひとつ、「日本語教育能力検定試験Japanese Language Teaching Competency Test」は、第一回目試験が1988年1月に実施されました。このときは、文部省管轄でしたが、現在は、日本国際教育支援協会が実施し日本語教育学会が資格を与える民間資格試験です。私がこの試験第一回目を受けたときは、二度目の大学生活3年生の冬でした。
1988年第1回目の日本語教育能力検定試験実施時に、「日本語教授法」を担当していた教授から、「第1回目は、どういう人が受験するのか実施側もわかっていないのだし、試験問題を作る側も試行錯誤の状態です。日本語学科の学生はみな受けてみなさい」と、お話がありました。あとで知ったことですが、教授は試験問題作成委員になっていたので、「試験はむずかしすぎた」とか「問題に偏りがあった」というような「受験者側の声」を知りたいために、受験を勧めたのでした。私たちはいわば、モルモット役?
問題は、日本語文法問題を中心に、教授法や日本語史など、朝9時からはじまって夕方5時に終了するハードなもの。私が一発合格できたのは、文法問題の比率が高かったからだと思います。
1988年に3月に合格通知を受け取り、4月から新大久保にあった日本語学校で教師のアルバイトをはじめました。夏休み中は夫の仕事を手伝い、9月の新学期からまた働こうと思っていたのですが、第2子出産で中断せざるを得なくなりました。夫は、医者から「最悪の場合、母も子も死んでしまうだろう」と宣告を受ける状態で、11月に息子が未熟児で誕生しました。母子で命を拾ったので、今、生きているだけでもうけもんと思って暮らしています。
子どもが二人になったので、日本語教師として働くこともままならず、しかたなく大学院へ進学して、また奨学金で母子3人が食べていくということになりました。子育てと日本語教師アルバイトをしながら、1993年にようやく修士課程を修了しました。日本語教師養成通信講座のスクーリング講師などをこなし、1994年から大学で教えるようになりました。
日本語教師をはじめたころは、「日本語を教えています」と言うと、親戚や友人からも「なに、それ。日本語なんて、オレだって教えられらぁ」と言われるくらい、日本語教師の認知度は低かった。
世間が「ひとつの職業」として認識したのは、1996年に香取慎吾がベトナム人日本語学習者役、安田成美が日本語教師役を演じたテレビドラマ『ドク』あたりからでした。このドラマ、日本語学校の現実とか日本語教師の仕事の内容が、脚本家にもよく理解されていないのではないか、というシナリオでしたが、「日本語教師」という仕事が認知されるためには役だったのではないと思います。
今でも、大学ヒエラルキーの中では、語学非常勤講師というのは最底辺の扱いで、いまも使い捨て状態であることに変わりなし。いきなり「留学生数が減ったので、来年度、先生の受け持ちはありません」と言われるような踏みつけ扱いをされながらも、せいいっぱいよい授業をしようと日夜奮闘中です。
<つづく>
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>ステップバイステップ日本語教師養成講座(1)一歩を踏み出す
金環日食、見えましたか。私は、ちょうど通勤の地下鉄の中で日食の時間になるので、こりゃ無理だと思っていたのですが、地下鉄からJRに乗り換える駅の出口で、大勢の人が空を見上げていたので、乗り換えを遅らせていったん下車しました。曇り空でしたが、雲をすかして大陽の形がはっきりみえました。
私がこんなにくっきりした日食を見るのは、1980年にケニアで見て以来のことです。ケニアのサバンナの中にあるボイという町へ日食見物に出かけ、美しいコロナに縁取られた皆既日食をみることができました。
30年前に大陽のリングを見たこと、私の今の仕事にも関わっているのです。日食を見たから日本語講師になった、というほど直接の関係ではないですが、ケニアに出かけたことが日本語言語文化研究の道につながったからです。
私が「日本語教師」という仕事について知ったのは、1979年、ケニアのナイロビに滞在しているときのことでした。
私は、中学校国語教師をやめたあと、演劇の勉強をしていました。民族芸能、演劇研究のフィールドとして、ほんとうはパプアニューギニアへいきたかったのですが、ケニアへ出かけました。従妹のミチコは、海外協力隊の一員。高校理科教師としてケニアの田舎のハイスクールに赴任していました。
ケニアでいっしょにすごしたタマちゃんは、獣医の資格を持っており、「海外協力隊でもどこからの派遣でもいいから、アフリカで獣医として働きたい」と希望していました。獣医の募集はごく狭き門でした。海外協力隊に派遣されるための職業として、獣医のほか、農業指導、ものづくりの技術指導、看護師、保健師、柔道指導などさまざまな職種があり、日本語教師という項目もあったのです。
帰国後、私は「国語教師をしていた経験があるのだから、日本語教師にもなれるんじゃないか」と軽く考え、広尾にあった協力隊の事務所へタマちゃんといっしょに出かけて行きました。しかし、日本語教師希望者のための試験問題をのぞいてみたら、「あらら、ぜんぜんわからない」という問題でした。日本語教師になるために一から学び直すのもたいへんだなあ、と思い、このときは断念。結局、ナイロビで出会ったタカ氏と結婚するという「人生の路」を選んでしまいました。この人生路がガタピシ泥んこ悪路であったことは、再三ぐちってきた通り。
私は娘が2歳になる少し前に、自転車で15分のところにある国立大学に新設された日本語学科に入学しました。
中学校の国語教師をやめて8年もたっており、おまけに入試には、何より苦手な数学の試験もあったので、合格するとは思っていなかったのですが、思いがけず、英語国語数学の1次試験、英語国語社会の2次試験に通りました。学科新設措置のため、センター試験終了後の臨時追加募集だったので、1次試験は15名の募集に対して600人の応募があり、足切りで200人が2次試験受験。その中から19名が合格しました。ほんとうに運がよかった。このときに運を使い果たしたとみえて、その後、宝くじはいくら買っても当たらない。
当時、夫の仕事はどん底で、食うにこと欠く毎日。1歳の娘を保育園に預けて働くといっても、保育園は待機児童でいっぱい。仕事に就いて、就業証明書を得てからでなければ受け入れない、と役所は言う。で、仕事先に問い合わせると、子どもの預け先がないなら、応募できないと言う。
せっぱつまって大学再入学を思いついたのです。大学に入って奨学金をもらおう、それで親子ふたりなんとか飢えずにすむだろう、、、、、。在学証明書が発行されたので、娘は保育園に入園でき、授業のない土曜日と夏休み冬休み春休みには夫の仕事を手伝いました。子育てと夫の仕事の手伝いと、日本語教師アルバイトを掛け持ちしながら、日本語学と日本語教育について学びました。一生涯で一番、体を酷使した時代です。娘をお風呂にいれても、自分の髪を洗う時間さえなかった。
日本語教師資格のひとつ、「日本語教育能力検定試験Japanese Language Teaching Competency Test」は、第一回目試験が1988年1月に実施されました。このときは、文部省管轄でしたが、現在は、日本国際教育支援協会が実施し日本語教育学会が資格を与える民間資格試験です。私がこの試験第一回目を受けたときは、二度目の大学生活3年生の冬でした。
1988年第1回目の日本語教育能力検定試験実施時に、「日本語教授法」を担当していた教授から、「第1回目は、どういう人が受験するのか実施側もわかっていないのだし、試験問題を作る側も試行錯誤の状態です。日本語学科の学生はみな受けてみなさい」と、お話がありました。あとで知ったことですが、教授は試験問題作成委員になっていたので、「試験はむずかしすぎた」とか「問題に偏りがあった」というような「受験者側の声」を知りたいために、受験を勧めたのでした。私たちはいわば、モルモット役?
問題は、日本語文法問題を中心に、教授法や日本語史など、朝9時からはじまって夕方5時に終了するハードなもの。私が一発合格できたのは、文法問題の比率が高かったからだと思います。
1988年に3月に合格通知を受け取り、4月から新大久保にあった日本語学校で教師のアルバイトをはじめました。夏休み中は夫の仕事を手伝い、9月の新学期からまた働こうと思っていたのですが、第2子出産で中断せざるを得なくなりました。夫は、医者から「最悪の場合、母も子も死んでしまうだろう」と宣告を受ける状態で、11月に息子が未熟児で誕生しました。母子で命を拾ったので、今、生きているだけでもうけもんと思って暮らしています。
子どもが二人になったので、日本語教師として働くこともままならず、しかたなく大学院へ進学して、また奨学金で母子3人が食べていくということになりました。子育てと日本語教師アルバイトをしながら、1993年にようやく修士課程を修了しました。日本語教師養成通信講座のスクーリング講師などをこなし、1994年から大学で教えるようになりました。
日本語教師をはじめたころは、「日本語を教えています」と言うと、親戚や友人からも「なに、それ。日本語なんて、オレだって教えられらぁ」と言われるくらい、日本語教師の認知度は低かった。
世間が「ひとつの職業」として認識したのは、1996年に香取慎吾がベトナム人日本語学習者役、安田成美が日本語教師役を演じたテレビドラマ『ドク』あたりからでした。このドラマ、日本語学校の現実とか日本語教師の仕事の内容が、脚本家にもよく理解されていないのではないか、というシナリオでしたが、「日本語教師」という仕事が認知されるためには役だったのではないと思います。
今でも、大学ヒエラルキーの中では、語学非常勤講師というのは最底辺の扱いで、いまも使い捨て状態であることに変わりなし。いきなり「留学生数が減ったので、来年度、先生の受け持ちはありません」と言われるような踏みつけ扱いをされながらも、せいいっぱいよい授業をしようと日夜奮闘中です。
<つづく>