2012/05/18
ぽかぽか春庭十二単日記>我が母の記(3)母たち-ミヨかあちゃんとネンネかあちゃんとタカ氏母さん
私の母、静栄は1917(大正6)年生まれ、1973(昭和47)年死去。55歳での急死でした。医者の誤診のため、具合が悪くなって1週間で死んでしまいました。死の1週間前には、いっしょに買い物をしたのに、東京から駆けつけてみると、もう臨終間際でした。
大好きな大好きな母。母がいなければ生きていけない、というのは、家族みなの思いでしたから、アヤ伯母が「みんなで後を追いましょう」と言ったとき、父が「でも、長女は嫁に出したのだから、いっしょに連れて行ったら、連れ合いが泣くことになる。こちらの都合で道連れにはできない」と、冷静に判断しなかったら、葬式の前にみなで後追いをしたでしょう。私が母の死の衝撃から立ち直るには3年かかりました。
農家出身の母は、「町の勤め人」に嫁いで、いわゆる「専業主婦」になりました。戦後のもののない時代に一家をきりもりし、毎日の家事掃除洗濯料理をこなし、子ども達の服をミシンで手作りする日常でしたが、母にとっては家の中の家事よりも、自然の中にいるほうが好きで、家庭菜園で野菜の世話をしたり、庭で飼っている鶏の世話をしているときのほうが楽しい時間だったことでしょう。
また、母は、本を読むのが大好きで、図書館で本を借りてきては、煮物をしながら本を読み出し、煮物はすっかり忘れてしまうという人でした。台所には、底が炭になっているお鍋がいくつもありました。
そんな母に、母の末の弟が句作をすすめ、母は新聞の投稿欄に自分の句が掲載されるのを楽しみにするようになりました。月に一度の句会に出かけるときも、家族の夕食を準備した上で、「夜出かけて留守にしたんじゃ、働いて帰ってきたお父さんに申し訳ない」と、遠慮しいしい出かける母でした。
帰ってくると「今月もお母さんの句が”天”になった」とうれしそうに句会で出されたお菓子を子ども達に配りました。選句の中から、点数が多く集まった句を天地人、つまり一位二位三位と決め、お菓子などが賞になったのです。
お菓子をもらいながら、「こんなおいしいお菓子、どうして自分で食べてしまわないで、全部こどもにくれるのだろう」と、子ども心に思ったのですが、自分が母になってみて、自分がおいしいものを食べるよりも、子ども達が「おいしい」と笑顔でほおばるようすを見るほうが、はるかに「母の幸せ」なのだとわかりました。
母は、年子で私を出産するとき体調が悪くなり、1歳半になっていた私の姉をアヤ伯母に預けました。アヤ伯母は姪っ子をかわいがることに生き甲斐を見いだし、養女にしたいと言い出しました。父は「世間にも出られない人に子育てはできない。ちゃんと勤めに出て一人前に働ける人でなければ大事な娘を預けられない」と言ったので、伯母はツテをたよりに30代半ばになってようやく勤めに出ることになりました。
アヤ伯母は、60歳で定年退職すると、役所の共済年金を受け取れるようになり、勤務した期間より長く60歳から90歳まで年金で生活しました。母の弟たちは「人付き合いができないアヤちゃんに勤めに出ろだなんて、幸男さんもむごいこと言うと思ったけれど、アヤちゃんにとっては、幸男さんは一番の恩人だな」と思ったことでした。
アヤ伯母は、養女にこそしませんでしたが、私の姉を我が子と思ってかわいがりましたから、姉は伯母を「ミヨかあちゃん」と呼び、親孝行をしていました。伯母は88歳以後急速に惚けてきましたから、姉が54歳で亡くなったことをよく理解出来ず、むしろ惚けて幸せだったと皆思いました。可愛い姪が先立ってしまったことで打撃をうけることなく、伯母は2年後亡くなりました。今では天国で「ミヨかあちゃん」と呼ばれていることでしょう。
姉は幼い頃、自分の母親はアヤ伯母であると思い込み、実母のことを「ネンネかあちゃん」と呼んでいました。ネンネかあちゃんとは、「赤ちゃん(私のこと)のお母さん」という意味です。母は、「子育てに関して、一番大きな悔いは、あんまりにも体がつらいので、長女をアヤちゃんに預けたことだ」と、後悔していました。姉にとっても「母が二人いるってことが、心理的な負担になったこともある」と語っていました。
アヤ伯母は、祖母が亡くなった後、実家を継いだ弟(駅叔父さん)のヨメと折り合いが悪くなり、わが家に一室を建て増しして同居しました。母が亡くなるまでの10年間、いっしょに暮らしましたが、母が亡くなると今度は、私の父との折り合いが悪くなり、つぎの弟(銀行おじさん)の家に同居することになりました。子どもの頃、場面緘黙症だった伯母、勤めに出ても、他人とつきあいが下手な伯母でした。役所勤めの間も、人間関係で大きなトラブルがあり、ノイローゼのようになったこともあったのですが、定年までよく持ちこたえたと思います。
伯母は、定年退職すると、住所は叔父の家にしたまま、生活はほとんど姉の家ですごすようになりました。一生独立して暮らすことがなかったアヤ伯母ですが、姉の娘たちからは「おばあちゃん」と慕われ、子を持たずとも、母としても祖母としても幸福な時間をすごせた人でした。
姑は、山形の鄙びた村に生まれました。町の女学校に通っている間は戦争中で何も楽しいこともなく、京都へ行くはずだった修学旅行も、「時節にかんがみて」ということで江の島鎌倉旅行に変更になった、と5月3日の「母の日家族パーティ」で語っていました。
戦後、東京に嫁に来て、銀行員の夫を支え、娘と息子を育てる日々。家を建て、子ども達が結婚して孫が5人でき、典型的な「戦後の専業主婦」の人生を歩んできました。
娘(夫の姉)が50歳で癌で先立つ不孝にみまわれましたが、2002年に舅が82歳で亡くなったあとも、「毎日いそがしい」という生活をおくっています。
月曜日、病院での検診、火曜日童謡を歌う会、水曜日詩吟、木曜日お習字。土曜日に行っていた体操教室がおしまいになったので、今月から土曜日にデイケアセンターのジムで「筋力アップ」に励むそうです。
デイケアセンターは、「要支援1」を受けての利用です。87歳まで「要介護・要支援」も受けずにきて、私が「おばあちゃん、一人暮らしなんだから、要支援の認定を受ければ、たいへんだと言っているゴミ出しなども手伝ってもらえるんですよ。私がいろいろ手伝えればいいけれど、私も働かなければ食べていけないので、こちらに来て手伝えませんから」と言っても、姑は「家事はたいへんでも自分でできるからいい」と、気丈なことを言っていたのです。
「私が還暦過ぎても働き続けなければならないのは、あなたの息子が”趣味の会社経営”を続けて、万年赤字だから」なんて、一言も姑に言ったことはありません。(言いたいけど言えないから、ブログで愚痴を言う)
土曜日に続けてきた体操教室のかわりにデイケアセンターのジムを利用したいからと、姑はようやく「要支援1」の認定を受けることになりました。ジムでは自転車こぎとか、いろいろな器具を使うのが、今のところ「珍しくて面白くて、どれも使ってみたいけれど、先生がちゃんとついていて、今日はこれを何分って、決められているから勝手にはできないのよ」と楽しそうです。
母しずえ、伯母アヤ、姑ユキ子、3人の母たち、それぞれに戦中戦後の激動の時代を生き抜いた女性たちです。ゼロからの日本の復興を支えた母達の世代。
私たちもまた、これからの社会を支えていかなければならないのでしょうが、いかんせん、もはや私はくたびれてヨレヨレです。
先週の金曜日、膝が痛いので受診したところ「膝に水がたまっている」と診断され、がっくりきています。還暦過ぎればあちこちに不調がでて当然なのかもしれませんが、姑の鍛え方に負けているかも。
膝が痛くて金曜日のダンスの練習を休んだので、5月12日土曜日は、娘に「今日はミサイルママと食事するから、夕ご飯いらない」と言いました。夕食食べないとき、連絡を忘れたりすると、娘に叱られます。
ミサイルママと、和食屋で膝の具合の話やら9月の発表会の話やらしました。私は発表会担当係なので、自分は踊らないとしても、決めなくてはいけないことや文化センターに提出する書類作成など、係の仕事がたくさんあります。
出演曲の長さを秒まではかり、全体の出場時間を決める。プログラムを作ったり、衣装を決めるのは、ミサイルママが担当してくれます。
ミサイルママは、離婚した夫が、最近やけに優しくなったという話をしていました。周囲の人はモトサヤを期待しているらしいとも。でも、「ひとり親」で苦労したことを思えば、子育てが終わった今頃になってヨリを戻したがっているなんて、虫がよすぎるとも思う、というミサイルママのことばに、「そうだ、そうだ。ひとりで働いてひとりで子育てをしてきた私たちってエラいよねぇ。だれも誉めてくれないから、お互いに誉め合おう」と、エール交換をしました。
「エラい母」ふたりは、格安和食屋の渋茶を飲みながら、自分たちの「偉かった母業」を褒め称え合いました。
<つづく>
ぽかぽか春庭十二単日記>我が母の記(3)母たち-ミヨかあちゃんとネンネかあちゃんとタカ氏母さん
私の母、静栄は1917(大正6)年生まれ、1973(昭和47)年死去。55歳での急死でした。医者の誤診のため、具合が悪くなって1週間で死んでしまいました。死の1週間前には、いっしょに買い物をしたのに、東京から駆けつけてみると、もう臨終間際でした。
大好きな大好きな母。母がいなければ生きていけない、というのは、家族みなの思いでしたから、アヤ伯母が「みんなで後を追いましょう」と言ったとき、父が「でも、長女は嫁に出したのだから、いっしょに連れて行ったら、連れ合いが泣くことになる。こちらの都合で道連れにはできない」と、冷静に判断しなかったら、葬式の前にみなで後追いをしたでしょう。私が母の死の衝撃から立ち直るには3年かかりました。
農家出身の母は、「町の勤め人」に嫁いで、いわゆる「専業主婦」になりました。戦後のもののない時代に一家をきりもりし、毎日の家事掃除洗濯料理をこなし、子ども達の服をミシンで手作りする日常でしたが、母にとっては家の中の家事よりも、自然の中にいるほうが好きで、家庭菜園で野菜の世話をしたり、庭で飼っている鶏の世話をしているときのほうが楽しい時間だったことでしょう。
また、母は、本を読むのが大好きで、図書館で本を借りてきては、煮物をしながら本を読み出し、煮物はすっかり忘れてしまうという人でした。台所には、底が炭になっているお鍋がいくつもありました。
そんな母に、母の末の弟が句作をすすめ、母は新聞の投稿欄に自分の句が掲載されるのを楽しみにするようになりました。月に一度の句会に出かけるときも、家族の夕食を準備した上で、「夜出かけて留守にしたんじゃ、働いて帰ってきたお父さんに申し訳ない」と、遠慮しいしい出かける母でした。
帰ってくると「今月もお母さんの句が”天”になった」とうれしそうに句会で出されたお菓子を子ども達に配りました。選句の中から、点数が多く集まった句を天地人、つまり一位二位三位と決め、お菓子などが賞になったのです。
お菓子をもらいながら、「こんなおいしいお菓子、どうして自分で食べてしまわないで、全部こどもにくれるのだろう」と、子ども心に思ったのですが、自分が母になってみて、自分がおいしいものを食べるよりも、子ども達が「おいしい」と笑顔でほおばるようすを見るほうが、はるかに「母の幸せ」なのだとわかりました。
母は、年子で私を出産するとき体調が悪くなり、1歳半になっていた私の姉をアヤ伯母に預けました。アヤ伯母は姪っ子をかわいがることに生き甲斐を見いだし、養女にしたいと言い出しました。父は「世間にも出られない人に子育てはできない。ちゃんと勤めに出て一人前に働ける人でなければ大事な娘を預けられない」と言ったので、伯母はツテをたよりに30代半ばになってようやく勤めに出ることになりました。
アヤ伯母は、60歳で定年退職すると、役所の共済年金を受け取れるようになり、勤務した期間より長く60歳から90歳まで年金で生活しました。母の弟たちは「人付き合いができないアヤちゃんに勤めに出ろだなんて、幸男さんもむごいこと言うと思ったけれど、アヤちゃんにとっては、幸男さんは一番の恩人だな」と思ったことでした。
アヤ伯母は、養女にこそしませんでしたが、私の姉を我が子と思ってかわいがりましたから、姉は伯母を「ミヨかあちゃん」と呼び、親孝行をしていました。伯母は88歳以後急速に惚けてきましたから、姉が54歳で亡くなったことをよく理解出来ず、むしろ惚けて幸せだったと皆思いました。可愛い姪が先立ってしまったことで打撃をうけることなく、伯母は2年後亡くなりました。今では天国で「ミヨかあちゃん」と呼ばれていることでしょう。
姉は幼い頃、自分の母親はアヤ伯母であると思い込み、実母のことを「ネンネかあちゃん」と呼んでいました。ネンネかあちゃんとは、「赤ちゃん(私のこと)のお母さん」という意味です。母は、「子育てに関して、一番大きな悔いは、あんまりにも体がつらいので、長女をアヤちゃんに預けたことだ」と、後悔していました。姉にとっても「母が二人いるってことが、心理的な負担になったこともある」と語っていました。
アヤ伯母は、祖母が亡くなった後、実家を継いだ弟(駅叔父さん)のヨメと折り合いが悪くなり、わが家に一室を建て増しして同居しました。母が亡くなるまでの10年間、いっしょに暮らしましたが、母が亡くなると今度は、私の父との折り合いが悪くなり、つぎの弟(銀行おじさん)の家に同居することになりました。子どもの頃、場面緘黙症だった伯母、勤めに出ても、他人とつきあいが下手な伯母でした。役所勤めの間も、人間関係で大きなトラブルがあり、ノイローゼのようになったこともあったのですが、定年までよく持ちこたえたと思います。
伯母は、定年退職すると、住所は叔父の家にしたまま、生活はほとんど姉の家ですごすようになりました。一生独立して暮らすことがなかったアヤ伯母ですが、姉の娘たちからは「おばあちゃん」と慕われ、子を持たずとも、母としても祖母としても幸福な時間をすごせた人でした。
姑は、山形の鄙びた村に生まれました。町の女学校に通っている間は戦争中で何も楽しいこともなく、京都へ行くはずだった修学旅行も、「時節にかんがみて」ということで江の島鎌倉旅行に変更になった、と5月3日の「母の日家族パーティ」で語っていました。
戦後、東京に嫁に来て、銀行員の夫を支え、娘と息子を育てる日々。家を建て、子ども達が結婚して孫が5人でき、典型的な「戦後の専業主婦」の人生を歩んできました。
娘(夫の姉)が50歳で癌で先立つ不孝にみまわれましたが、2002年に舅が82歳で亡くなったあとも、「毎日いそがしい」という生活をおくっています。
月曜日、病院での検診、火曜日童謡を歌う会、水曜日詩吟、木曜日お習字。土曜日に行っていた体操教室がおしまいになったので、今月から土曜日にデイケアセンターのジムで「筋力アップ」に励むそうです。
デイケアセンターは、「要支援1」を受けての利用です。87歳まで「要介護・要支援」も受けずにきて、私が「おばあちゃん、一人暮らしなんだから、要支援の認定を受ければ、たいへんだと言っているゴミ出しなども手伝ってもらえるんですよ。私がいろいろ手伝えればいいけれど、私も働かなければ食べていけないので、こちらに来て手伝えませんから」と言っても、姑は「家事はたいへんでも自分でできるからいい」と、気丈なことを言っていたのです。
「私が還暦過ぎても働き続けなければならないのは、あなたの息子が”趣味の会社経営”を続けて、万年赤字だから」なんて、一言も姑に言ったことはありません。(言いたいけど言えないから、ブログで愚痴を言う)
土曜日に続けてきた体操教室のかわりにデイケアセンターのジムを利用したいからと、姑はようやく「要支援1」の認定を受けることになりました。ジムでは自転車こぎとか、いろいろな器具を使うのが、今のところ「珍しくて面白くて、どれも使ってみたいけれど、先生がちゃんとついていて、今日はこれを何分って、決められているから勝手にはできないのよ」と楽しそうです。
母しずえ、伯母アヤ、姑ユキ子、3人の母たち、それぞれに戦中戦後の激動の時代を生き抜いた女性たちです。ゼロからの日本の復興を支えた母達の世代。
私たちもまた、これからの社会を支えていかなければならないのでしょうが、いかんせん、もはや私はくたびれてヨレヨレです。
先週の金曜日、膝が痛いので受診したところ「膝に水がたまっている」と診断され、がっくりきています。還暦過ぎればあちこちに不調がでて当然なのかもしれませんが、姑の鍛え方に負けているかも。
膝が痛くて金曜日のダンスの練習を休んだので、5月12日土曜日は、娘に「今日はミサイルママと食事するから、夕ご飯いらない」と言いました。夕食食べないとき、連絡を忘れたりすると、娘に叱られます。
ミサイルママと、和食屋で膝の具合の話やら9月の発表会の話やらしました。私は発表会担当係なので、自分は踊らないとしても、決めなくてはいけないことや文化センターに提出する書類作成など、係の仕事がたくさんあります。
出演曲の長さを秒まではかり、全体の出場時間を決める。プログラムを作ったり、衣装を決めるのは、ミサイルママが担当してくれます。
ミサイルママは、離婚した夫が、最近やけに優しくなったという話をしていました。周囲の人はモトサヤを期待しているらしいとも。でも、「ひとり親」で苦労したことを思えば、子育てが終わった今頃になってヨリを戻したがっているなんて、虫がよすぎるとも思う、というミサイルママのことばに、「そうだ、そうだ。ひとりで働いてひとりで子育てをしてきた私たちってエラいよねぇ。だれも誉めてくれないから、お互いに誉め合おう」と、エール交換をしました。
「エラい母」ふたりは、格安和食屋の渋茶を飲みながら、自分たちの「偉かった母業」を褒め称え合いました。
<つづく>