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ぽかぽか春庭「バルチュス展 in 東京都美術館」

2014-06-10 01:00:01 | エッセイ、コラム

会場入り口のポスター

2014/06//10
ぽかぽか春庭@アート散歩>20世紀の画家たち(3)バルチュス展 in 東京都美術館

 6月8日日曜日、コンサートの招待券を握りしめて会場に入ったら、受付の人に「これ、違います」と言われて、ありゃま目的のコンサートは来週の日曜日15日でした。1週間まちがえちゃった。こんな呆けは、若いころからのいつものことなので、特に年取ったから呆けたんじゃありません。と、いばってどーする。

 せっかく家を出てきたのだしと、仕切り直し。上野の東京都美術館でバルチュス展を見ることにしました。バルチュス展の招待券が手に入らないので、見るか見ないか迷っていたのですが。

 5月28日には来館者が10万人突破したというニュースも見ていたので、日曜日だと混むだろうとの予想通り、3時半に入場したときは、チビの私は、人の頭越しに、あるいは人と人が重なり合っている隙間からでないと絵が見えない。まずは、頭越しに地下1階、1階、2階とちらりと見ながら一巡して、ゆっくり見たい絵の目星をつけておきました。会場内のベンチにおいてある図録を見ながら、足を休めました。コンサートに行く予定で、歩かないつもりだったので、雨の日パンプス(履いてきてしまいました。いつも展覧会に出かけるときはいっぱい歩くのでウォーキング用のスニーカーを履いてくるのですが、雨の日パンプス(すなわち古くて、雨に濡れてだめになっても惜しくないやつ)で歩くと疲れます。

 2巡目、少しすいてきたので、フロアの中で人が少ないところをとびとびに歩いて、好きな絵を見ていきます。
 ねらい目はいつもの通り、閉館30分前。もう入場者は入ってこないので、ほとんど人がいないところをゆっくり見ることができます。そのかわり係り員の「まもなく閉館時刻となります」という声に追い立てられるのですが、閉館時間までは見ててよいはずなので、あせることはない。
 自画像「猫の王」や「夢見るテレーズ」などの、図版でなじみだった絵の前で、じっくり見ることができました。

 「ピカソがバルチュスを評して”二十世紀最後の巨匠”と言った」という宣伝文句がチラシにも美術館の解説ページにも書いてあって、いかに偉大な画家であるかということにつき、さまざまな人がコメントを寄せています。ポスターの惹句は「賞賛と誤解だらけの20世紀最後の巨匠」

 しかし、私はピカソは知っていても、20世紀のうちはバルチュスの名を知りませんでした。彼の名を知ったのは、2001年にバルチュスが93歳で亡くなったあと、遺産相続をめぐって、先妻の子供と若い後妻の間で裁判になっている、という下世話なニュースによってでした。その後妻さんが日本人女性であることから、週刊誌などの話題になったのです。

 遺産は、バルチュス財団を設立して節子クロソフスカ・ド・ローラ夫人が管理することになった、ということを報道で知り、ピカソのときのように、相続人たちが熾烈な遺産争いをした、ということでもなく、うまく決着がついたのだなと、思いました。他人の遺産問題で私があれこれ詮索することもないのですが、奥さんが日本人と思うと、あまり壮絶な争いになってほしくないと思っていたので。まあ、なったでなったで、金持ち家族の争いっていうのは、傍の貧民にとっては楽しい見ものでもあるのですけれどね。

 節子夫人、その後ちょくちょく雑誌やテレビで見かけるようになりました。今回のバルチュス展でも、会場に展示されているパネルに「節子夫人の力が大きかったと」とのあいさつ文がでていました。

 上智のフランス語科で学び、絵も修行中の20歳の出田節子が、来日したバルチュスの通訳として同行し、25歳の時35歳年上のバルチュスの2度目の妻となりました。子供のころから浮世絵などの日本文化に親しんできたバルチュスは、ますます日本に傾倒し、夫人には和装で通すよう願いました。

 展示作品の中に、何点かは先妻の息子スタニスラス(Stanislas Klossowski De Rola)が所蔵している「スタニスラス・クロソフスキー・ド・ローラ・コレクション」からの出展作があったので、ああ、相続でもめたということだったけれど、一生仲たがいするほど喧嘩したわけじゃなかったのね、と、またほっとしました。ピカソのところは、莫大な遺産をめぐって、母親の異なる子供たちその孫も巻き込んでの相続争いとなりましたが、バルチュス展に、節子コレクションとスタニスラスコレクションの両方からの作品が並んでいるということは、バルチュス展のために、双方が協力したということでしょうから。

 今回の展覧会では、バルチュスの作品のほか、スイス山中にあるバルチュスのアトリエの一部が再現展示されており、また、最後のブースでは、バルチュス愛用品とともに、バルチュスと節子夫人、娘の晴美さんの一家の写真(篠山紀信撮影)が飾られていて、画家バルチュスを私生活の面からも理解できるように企画されていました。それで、ついつい私もバルチュスの私生活に関心が向いてしまって。
 いや、私の絵の見方だと、絵と同じくらい画家本人がどのような生涯をすごした人だったのか、というストーリーのほうにも関心が向くのが常なのですけれど。

 バルチュスの羽織はかま姿などが撮影され、彼が好きだった勝新太郎にあてた「市さんへ」という献辞つきの画集なども展示されていましたし、勝新太郎や里見浩太朗がプレゼントした和服もありました。愛用の英和辞典や仏日辞典はぼろぼろになっていて、しょっちゅう辞書を見ていたのだろうなあと想像されました。

 バルチュス(本名:バルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラ Balthasar Michel Klossowski de Rola)は、 1908年 に生まれました。2月29日生まれというのもなにやら希少価値の感じ。一家は当時モンパルナスに居住。パリに亡命したポーランド貴族の家でした。
 バルチュスの父エリックは美術批評家、母バラディーヌ(Baladine)は画家で、財産を失う前の一家には、作家アンドレ・ジッド、画家ボナール、マチス、作曲家ストラヴィンスキー、舞踊家ニジンスキーら、そうそうたるメンバーが出入りしていました。

 両親も、兄も、芸術に関連して生涯をすごした芸術一家の一員として、バルタザール少年も。早くから絵の才能を発揮しました。最初にバルタザールの絵を認めたのは、詩人のリルケでした。母バラディーヌは、エリックと離婚したあと、リルケと恋仲になっていたのです。
 リルケは、バルタザール少年が描いた猫の物語を出版へと取り計らってくれました。バルタザール少年10歳の絵による、少年と猫の物語です。バルチュス12歳のとき、本が出来上がりました。

 今回の展示でも、その本「ミツ」のコピーが、展示の最初のコーナーにありました。「ミツ」と名付けられた猫。漢字で書くと「光」だそうで、「クーデンホーフ=カレルギー光子」に由来するのじゃないかなと想像しました。

 今回の展示では母親が息子バルタザールと猫のミツを描いた水彩画が出展されています。バルチュスの先妻の息子のひとりタデ・クロソフスキー・ド・ローラの所蔵。この絵が出展されたということも、節子夫人と先妻の息子たちの仲がいいのだと感じます。

 バルタザール少年の表情はちょっと悲しげに見え、芸術活動に忙しい両親の間にあって、猫だけが親友の孤独な少年だったのかなあ、なんて思いました。
 リルケがバルタザール少年に才能の発露を見出したのは本当でしょうが、わずか10歳の男の子の作品を本にして、序文を書いてあげたというのは、幼い坊やの母親を恋人として奪ったことへの贖罪もあったのではないかな、と感じる表情でした。

バルチュスの母バラディーヌ・クロソフスカが描いた「バルチュスとミツ」1916(バルチュス8歳)


 バルチュスの作品については、次回紹介します。

<つづく>
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