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ぽかぽか春庭「賞賛と誤解だらけのバルチュス」

2014-06-12 00:44:49 | エッセイ、コラム

読書するカティア


2014/06/12
ぽかぽか春庭@アート散歩>20世紀の画家たち(5)賞賛と誤解だらけのバルチュス

 東京都美術館のバルチュス展のキャッチコピーは、「賞賛と誤解だらけの20世紀最後の巨匠」です。
 画家の作品に毀誉褒貶はつきものだけれど、惹句になるほどの誤解を受けた、とするなら、その誤解とは、どんなものだったのか。

 図録も買わなかったし、ガイドイヤホンも借りなかったので、美術館側が「誤解」をどのようなものと考えていたのかはわからないですが、これまでバルチュスに付きまとってきた「誤解」のひとつは、彼が画家として独り立ちしたころにつきまとった「シュールリアリズム派の作品」という誤解。バルチュス自身は、自分の作品を「超現実」とはぜんぜん考えていなくて、超現実派の絵に対して批判的だったということですが、作品を発表し始めた時期が超現実派流行のころだったゆえ、画商などが絵を売り込むためには、「シュールリアリズムの新人」と銘打ったほうが、売りやすかったのだろうと思います。

 もうひとつの誤解は、彼の描く少女をテーマとした絵に対して「ロリコン絵画」という見方がされてきた、ということだろうと思います。

 「誤解」が生ずるだろうということは、バルチュス自身承知していました。
 最初の個展のときに、バルチュスは少女の絵が誤解を生むこと予想して、画廊内にカーテンで仕切られた特別な展示箇所をしつらえ、画家自身が「この人になら見せてもだいじょうぶ」と思った人にしか見せませんでした。この事実については、会田誠展について報告したときに、述べました。バルチュスが「誤解を生む」と考えてカーテンの後ろに隠した「ギターレッスン」は、今回は展示されていませんでしたが、他の少女たちの絵も、「ロリコン絵画」と誤解する人がいたとして、それは個人個人の感じ方だからとやかく言ってもしかたがない、というところ。

 風景や静物画の展示もありますが、風景や静物だけだったら、「20世紀最後の巨匠」という惹句はつかなかったのではないかと感じます。少なくとも私は、あまりひかれない風景画、静物画でした。
 猫につづいて、バルチュスが「少女」を重要なモチーフとしたことは、展示を年代順に追っていけばわかることで、バルチュスといえば、なんといっても少女の絵です。
 
 晩年のバルチュスは、少女について「この上なく完璧な美の象徴」と言った、ということばは、バルチュスを語るとき、たいてい引用されるフレーズです。しかし、少女が挑発的なポーズを見せるバルチュスの絵を見て回ると、やはりバルチュスにとって「未完成であるがゆえに完璧な美」であったのだろう、と思いました。

 一般的には「完璧な美しさ」ととらえられているモナリザもミロのビーナスも、バルチュスにとっては美ではない。なぜなら、彼女たちは完成された大人の女性だから、
 バルチュスが女性を描くとき、未完成でなければ、美を感じなかったのかもしれない、と、思ったことでした。
 こういう見方こそ「誤解」なのだ、と言われるかもしれませんが。

 幼馴染だったアントワネット・ド・ワットヴィル (Antoinette de Watteville) に恋をし、婚約者のいたアントワネットと「略奪愛」によって、1937年に結婚。スタニスラスとタデをいうふたりの男の子をもうけます。しかし、母親となり女として成熟したアントワネットとは、別居。バルチュスは義理の姪(兄ピエールの結婚相手の連れ子)フレデリック・ティゾンと同棲します。

 フレデリックが大人の女性として自立するころ、バルチュスは「永遠の日本人形」そのもののような二十歳の出田節子と出会います。節子とは、娘晴美をもうけたあとも40年の歳月を共にすごします。
 今回の展覧会に合わせて来日した節子夫人、テレビや写真で見る限り、「永遠の少女性」を失わなかった人なのだなあと感じました。  

 節子夫人はインタビューで、バルチュスにとって「少女」は、「聖なるエロス」なのだ、とに答えています。
 兄ピエールが、カトリック修道士からイスラム教徒に改宗するという変化を経たのに対して、バルチュスは最後まで敬虔なカトリック教徒であり、篠山紀信が撮影した赤い修道士服を着た肖像も最後のブースに展示されていました。
 バルチュスは意識下では「少女は完璧な美の象徴」であり「神に近づいていくエロス」と、考えていたのだと思います。しかし、キャンバスの中の少女たちがとる挑発的なポーズの作品のいくつかを見ていくうち、バルチュスは、ほんと、少女が好きであり、大人の女にエロスを感じなかった人なんだろうと思えてきます。

 神に通ずるエロス。少女たちは、無垢で無邪気なエロスを発揮し、バルチュスはその無意識のエロスを拾い上げ、画布に定着させる。
 誤解を解かなけえばならないか。いいや。バルチュスは、はかなく消えゆくものを「美」として追い求め続けた。それがバルチュス。失われたミツの面影を追い求めて、40枚の絵にミツを定着させた10歳のときから、バルチュスのモチーフは「やがて失われてしまうもの」なのだろうと思います。

 画集などではそれほど気にならなかったのに、本物を見て感じる疑問点がもうひとつ。たとえば、嵐が丘のキャシーを描いた本の挿絵。キャサリンの頭は、他の誰よりも大頭に描かれています。赤ちゃんは4頭身で、美女とされる大人の女性は8頭身だと言われているのに、なぜキャサリンは頭を大きくえがかれてしまったのか。バルチュスにとって、キャサリンは大人の女性ではなかった、ということなのだと思います。

キャシーの化粧


<つづく>
コメント (2)
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