2014/06/19
ぽかぽか春庭感激観劇日記>梅雨どきのかんげき(2)コーカサスの白墨の輪2回目
東京ノーヴィレパートリーシアターのレパートリーのひとつ『コーカサスの白墨の輪』を2013年春に見て、1年ぶりに6月7日に再び観劇しました。
今回の上演は、シアターカイが続けてきた「よい演劇を千円で見る」シリーズのひとつで、毎月2回の上演を半年ずつつづけてきました。その間に、役者も演出も変化して、より深化した掘り下げが行われたと、思います。
昨年の鑑賞記とあらすじはこちら。
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/426b5859cef8dc0f502173bacaa5617e
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/74e7b6c6ed80e25028084b2b023c09bb
東京ノーヴィは、レパートリーとなっている演目を繰り返して上演して改変していくという「演目の進化」を目指しています。昨年見た『白痴』と『コーカサスの白墨の輪』も、シアターカイで毎月上演されてきて、私は、『白痴』を2回見て、『コーカサス~』も6月7日が2度目です。
『白痴』は2度目に見たとき、どこが変わっているのかよくわかりませんでしたが、『コーカサスの~』は、裁判官アツダクがいかにして裁判官になったか、というサブストーリーがかなり短くなっていると感じました。
こまかい点で1年前とは演出やセリフが変化している部分もありました。たとえば、前回見たときはシャンソン歌手の渡辺歌子さんが、劇中歌を歌っていましたが、今回はなし。
最後のグルジアンダンスを出演者全員で踊るシーンでも、役者たちの「今日が千秋楽」という高揚と安堵の気分が伝わってきました。
しかし、私の印象では1年前の初見のときのほうが、新鮮な感動がありました。
『コーカサスの~』も、ブレヒトの定番劇として、何度見てもよいもののはず。では、この、「薄められた感動」は、何によるのだろうかと気になりました。
ブレヒトにとって、演劇とは「人々に異化作用をもたらし、社会への目を変化させる」できごと。観客が登場人物や物語に感情同化せず、距離をおいて批判的に観察するために、劇中のできごとを「劇中の出来事であること」をはっきりさせ(叙事的演劇)、社会を変革する視点を観客に与えることを強調しました。演劇は、単に人々の娯楽、気晴らしとして楽しむものではなく、「異化効果・異化作用」によって、これまでと異なる視点で問題点を考えられるよう、観客に働きかけるもの、とブレヒトは考えました。
『コーカサスの白墨の輪』の主人公グルシエは、領主夫人が捨てていった赤ん坊ミハイルを、苦労に苦労を重ねて育て、愛情をもって接しています。しかし、ミハイルの将来を考えると、遺産を受け取る立場にしてやったほうが、幸福になれるのか、自問します。
グルシエは、結論します。愛情もないくせに、遺産相続の権利を我が手ににぎるためだけにミハイルを取り戻そうとしている領主夫人の手に渡したら、ミハイルは決して真の幸福にはなれない。貧しくともミハイルを心から愛し守ってやれる自分こそがミハイルを真にしあわせにできる。
裁判官は、実の親と育ての母のグルシエがミハイルの手を右と左からひっぱって、自分のほうに引き寄せたほうが、強く母になりたいと願っている証明である、言います。
ミハイルの手を領主夫人とグルシエがひっぱり、ミハイルは泣いて痛がります。ミハイルの泣き声を聞くと、グルシエは思わず手を離してしまいます。勝ち誇る領主夫人。しかし、アツダクは、真の母の愛情を持っているのはグルシエだと判断します。
領主夫人と弁護士は「莫大な財産を受け継いだほうがミハイルのためになる」と主張します。しかしグルシエはその言い分に惑わされず、裁判官という権威者が「我が子の腕を強くひっぱって自分にひきよせたほうが本当の親」と決めたことにも従わず、ただ、我が子を思う、その真の愛情の発露によって行動しました。
グルシエは「長いものに巻かれる」ことなく、そして「楽なほうを選ぶ」ことを拒否し、自分自身の感覚と感情で行動しました。このグルシエの行動は、観客を異化したのでしょうか。
ブレヒトは「同化するな、異化しろ」と、言ったけれど、私たちはグルシエに同化して「ミハイルを取り戻せてよかったよかった」で終わってしまう。観客が、ひとときの心のなぐさめを得て、「よい劇を見たね」と満足して家路につくのを拒否して、ブレヒトはこの劇をつくったはずだけれど。
ブレヒトが観客に「異化せよ」と望んだのは、「権威権力や財力にひれ伏すな。他者の価値観に巻き込まれるな、自分の頭で考えて、真実をつかめ」ということでしょう。一人の人として生きていくことを恐れずに、強く生きること。人間の弱さ醜さを知りつつ、それを超えて生き抜くこと。
私が、今回物足りなく思ったのは、「おそらく観客たちは、グルシエがミハイルをとりもどすことができてよかった、よかった」と家路につくに違いない、と感じたからです。ひとときの楽しみを味わい、それでおわるだろうと。
私は、この劇を見て楽しんだし、グルシエの思い、考えたこと、こころに響いた、でもそれで満足することで、ブレヒトがこの劇を書いたことに答えているのだろうかと心もとなくも思ったのです。
長いものに巻かれたほうが楽だから、戦争したいという人が旗ふれば、そうだそうだといい、残業代は払わぬといえば、ごもっとも、と納得する。原発再開といえば、「そうね、私も電気代安いほうがいい」とうなずく。異議申し立てをしても無駄だとあきらめる。
豚小屋で餌を与えられてすごすほうが、荒野にひとり立つより安楽安逸に生きていけるのに、何を好き好んで荒野へ向かうのか。みな豚小屋に住みたがっているのに。
<つづく>
ぽかぽか春庭感激観劇日記>梅雨どきのかんげき(2)コーカサスの白墨の輪2回目
東京ノーヴィレパートリーシアターのレパートリーのひとつ『コーカサスの白墨の輪』を2013年春に見て、1年ぶりに6月7日に再び観劇しました。
今回の上演は、シアターカイが続けてきた「よい演劇を千円で見る」シリーズのひとつで、毎月2回の上演を半年ずつつづけてきました。その間に、役者も演出も変化して、より深化した掘り下げが行われたと、思います。
昨年の鑑賞記とあらすじはこちら。
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/426b5859cef8dc0f502173bacaa5617e
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/74e7b6c6ed80e25028084b2b023c09bb
東京ノーヴィは、レパートリーとなっている演目を繰り返して上演して改変していくという「演目の進化」を目指しています。昨年見た『白痴』と『コーカサスの白墨の輪』も、シアターカイで毎月上演されてきて、私は、『白痴』を2回見て、『コーカサス~』も6月7日が2度目です。
『白痴』は2度目に見たとき、どこが変わっているのかよくわかりませんでしたが、『コーカサスの~』は、裁判官アツダクがいかにして裁判官になったか、というサブストーリーがかなり短くなっていると感じました。
こまかい点で1年前とは演出やセリフが変化している部分もありました。たとえば、前回見たときはシャンソン歌手の渡辺歌子さんが、劇中歌を歌っていましたが、今回はなし。
最後のグルジアンダンスを出演者全員で踊るシーンでも、役者たちの「今日が千秋楽」という高揚と安堵の気分が伝わってきました。
しかし、私の印象では1年前の初見のときのほうが、新鮮な感動がありました。
『コーカサスの~』も、ブレヒトの定番劇として、何度見てもよいもののはず。では、この、「薄められた感動」は、何によるのだろうかと気になりました。
ブレヒトにとって、演劇とは「人々に異化作用をもたらし、社会への目を変化させる」できごと。観客が登場人物や物語に感情同化せず、距離をおいて批判的に観察するために、劇中のできごとを「劇中の出来事であること」をはっきりさせ(叙事的演劇)、社会を変革する視点を観客に与えることを強調しました。演劇は、単に人々の娯楽、気晴らしとして楽しむものではなく、「異化効果・異化作用」によって、これまでと異なる視点で問題点を考えられるよう、観客に働きかけるもの、とブレヒトは考えました。
『コーカサスの白墨の輪』の主人公グルシエは、領主夫人が捨てていった赤ん坊ミハイルを、苦労に苦労を重ねて育て、愛情をもって接しています。しかし、ミハイルの将来を考えると、遺産を受け取る立場にしてやったほうが、幸福になれるのか、自問します。
グルシエは、結論します。愛情もないくせに、遺産相続の権利を我が手ににぎるためだけにミハイルを取り戻そうとしている領主夫人の手に渡したら、ミハイルは決して真の幸福にはなれない。貧しくともミハイルを心から愛し守ってやれる自分こそがミハイルを真にしあわせにできる。
裁判官は、実の親と育ての母のグルシエがミハイルの手を右と左からひっぱって、自分のほうに引き寄せたほうが、強く母になりたいと願っている証明である、言います。
ミハイルの手を領主夫人とグルシエがひっぱり、ミハイルは泣いて痛がります。ミハイルの泣き声を聞くと、グルシエは思わず手を離してしまいます。勝ち誇る領主夫人。しかし、アツダクは、真の母の愛情を持っているのはグルシエだと判断します。
領主夫人と弁護士は「莫大な財産を受け継いだほうがミハイルのためになる」と主張します。しかしグルシエはその言い分に惑わされず、裁判官という権威者が「我が子の腕を強くひっぱって自分にひきよせたほうが本当の親」と決めたことにも従わず、ただ、我が子を思う、その真の愛情の発露によって行動しました。
グルシエは「長いものに巻かれる」ことなく、そして「楽なほうを選ぶ」ことを拒否し、自分自身の感覚と感情で行動しました。このグルシエの行動は、観客を異化したのでしょうか。
ブレヒトは「同化するな、異化しろ」と、言ったけれど、私たちはグルシエに同化して「ミハイルを取り戻せてよかったよかった」で終わってしまう。観客が、ひとときの心のなぐさめを得て、「よい劇を見たね」と満足して家路につくのを拒否して、ブレヒトはこの劇をつくったはずだけれど。
ブレヒトが観客に「異化せよ」と望んだのは、「権威権力や財力にひれ伏すな。他者の価値観に巻き込まれるな、自分の頭で考えて、真実をつかめ」ということでしょう。一人の人として生きていくことを恐れずに、強く生きること。人間の弱さ醜さを知りつつ、それを超えて生き抜くこと。
私が、今回物足りなく思ったのは、「おそらく観客たちは、グルシエがミハイルをとりもどすことができてよかった、よかった」と家路につくに違いない、と感じたからです。ひとときの楽しみを味わい、それでおわるだろうと。
私は、この劇を見て楽しんだし、グルシエの思い、考えたこと、こころに響いた、でもそれで満足することで、ブレヒトがこの劇を書いたことに答えているのだろうかと心もとなくも思ったのです。
長いものに巻かれたほうが楽だから、戦争したいという人が旗ふれば、そうだそうだといい、残業代は払わぬといえば、ごもっとも、と納得する。原発再開といえば、「そうね、私も電気代安いほうがいい」とうなずく。異議申し立てをしても無駄だとあきらめる。
豚小屋で餌を与えられてすごすほうが、荒野にひとり立つより安楽安逸に生きていけるのに、何を好き好んで荒野へ向かうのか。みな豚小屋に住みたがっているのに。
<つづく>