春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「バルチュスと少女」

2014-06-14 10:15:01 | エッセイ、コラム
2014/06//14
ぽかぽか春庭@アート散歩>20世紀の画家たち(6)バルチュスと少女

 「賞賛と誤解だらけのバルチュス」というキャッチコピーがつけられた東京都美術館でのバルチュス展。しかしながら、今回の展覧会で述べられているのは賞賛がほとんどで、誤解による言説は、私が雑誌や新聞で見た範囲ではきづかなかった。
 人が絵を見るのは、それぞれの人が自分の目で見たいように見るのだから、誤解もまたその人の見方なのだ、と思うけれど、美術評論家とか新聞の美術記者とかは、誤解に基づく自分の感じ方を、述べたくてもできないのかもしれません。

 だから、私は私の誤解したことを述べておきます。美術評論家ではないんで。
 私は、バルチュスの絵、本物を見るのは今回が初めてでした。これまでは図版だけでバルチュスを見てきました。
 たとえば、若い節子夫人をモデルにした「日本の女シリーズ」、図版で見る限りでは、画面の女性に少しも魅力を感じませんでした。浮世絵の影響が表れているというような解説を読んでも、写真で見る節子夫人の「永遠の少女」の美しさに比べて、鉢巻をしめて、着物をずるりと肩肌脱ぎにして這っている「朱色の机と日本の女」も「黒い鏡を見る日本の女」も、他の少女の絵に比べて惹かれるところがありませんでした。

 図版では何か、私には見えていないものがあるのかもしれない、本物を見たらきっと違って見えるだろう、という期待を込めて「朱色の机と日本の女」を見たのですが、やはり魅力を感じませんでした。



 今回の展示には、バルチュスがはじめて出田節子に出会ったときの、20歳の節子をスケッチした素描が出展されていました。こちらはとても魅力的な少女の輝く美しさが出ています。
 バルチュスが好んだ日本。浮世絵は多くの西欧の画家に影響を与えたことが知られていますが、バルチュスはそのほか勝新太郎の座頭市シリーズもお気に入りだったことが知られています。

 「お前のごどきシロートにバルチュスの神髄はわからぬのだ」と叱られることは承知で言うと、バルチュスの日本理解は、たとえば、アンドレ・マルローの日本理解に比べると、いくぶんか浅いものであったように思えてしまうのです。むろん、これは私自身が浅いものの見方しかできぬ者であることからくる誤解でしょう。なにしろ私は、長いことアンドレ・マルローとマルセル・マルソーを同一人物だと誤解していたくらいですから。

 バルチュスを日本に派遣したアンドレ・マルローは、フランス文化大臣として、1961年に、バルチュスをローマにある「アカデミー・ド・フランス」の館長に任命しました。「ヴィラ・メディチ」は、メディチ家が所有していた古い館でしたが、バルチュスがローマに赴任した時は荒れ果てていました。バルチュスはマルローの改修依頼を受けて、石組みの補修、壁の色選定から改修をやり遂げました。

 バルチュスの初来日は、1962年。旅行のガイドとして選ばれた出田節子に惹かれ、翌年にはローマに招待。当時はまだアントワネットと法的には夫婦であるけれども別居しており、義理の姪であるフレデリックと同居している、という状態でしたが、アントワネットともフレデリックとも別れたうえ、節子と結婚。以後、40年間を共に暮らします。

 私の誤解であろうけれど。フレデリックが大人の女に成熟していったのに対して、節子夫人は、バルチュスにとって、娘を生んで母になっても終生「永遠の少女」として目に映っていたのではないかと思います。ファンの目には、原節子が「永遠の処女」であり吉永小百合が「永遠の乙女」であるのと同じように、90歳のバルチュスにとって、55歳の節子夫人は、若く美しい女性だったろうと思います。

 「ロリータコンプレックス」の画家ではないか、と思われているけれど、それは誤解である、と「絵を深く鑑賞できる」人々は言いたげです。
 でも、絵画を浅く直感や印象批評でしか見ることができない私には、バルチュスにとって、少女は未完の美であり、未完の性であるがゆえの欲望の対象であった、としか思えません。誤解なのでしょうけれど。


<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする