猫たちの王1935
2014/06//11
ぽかぽか春庭@アート散歩>20世紀の画家たち(4)猫たちの王バルチュス
バルチュスの母バラディーヌ(本名エリザベート・ドロテア・スピロ Elisabeth Dorothea Spiro)を生涯最後の恋人とした詩人リルケ(1875-1926)は、作家である友人シャルル・ヴィルドラック(Charles Vildrac、(1882 - 1971)に宛てて、手紙を書きました。日付は、1920年12月13日。
「私の小さな友人(12 歳)が,この度チューリッヒのある出版社から素敵なデッサン集を出すことになったのですが,小生がその序文を書くことになりました。つたない序文です。小生は序文を書くことを誇らしく思っています。というのも,序文をフランス語で書くなんて初めてだからです。
バルチュス少年(ポーランド出身)は画家エリック・クロソウスキー氏の息子さんです。エリックは一頃サン=ジェルマンに住んでおられました。懐かしいでしょう。若干12 歳にして,40 枚の版画で,猫との出会いと別れを,頭の中に残っている残像を拾いながら物語ってくれるのですが,実に魅力的な作品です。この子には天才があります。だから,ささやかですが,出版して世間の目に触れさせてやろうという気になったのです。バルチュスはデッサンしか描いておらず,文章は一切書いていません。ですから,小生が数ページの序文をつければよろしいかと思います(リルケ書簡集)」
出会いーベンチの上で鳴いている捨て猫

喪失ーミツがいなくなり、泣く少年

バルチュスが90歳を過ぎてから回想した幼年時代の記憶によれば、バルタザール少年とリルケは、本当の親子以上に心を通わせあえる仲だったそうです。当時、詩人としてはスランプにあったリルケは、無垢な少年の天分を応援することで、自分自身の才能の復活を探っていたのかもしれません。
「マリアの生涯(Neue Gedichte、1913年)」を世に出してから実に10年も詩が書けないできたリルケは、バルタザール少年の画集「ミツ」にフランス語での序文を書いて以後、復活します。バラの棘に指をさされて死ぬという運命に見舞われるまでの短い復活の時間に、「ドゥイノの悲歌(Duineser Elegien、1923年)」「オルフォイスへのソネット(Die Sonette an Orpheus、1923年)」という傑作を世に出して、バラの棘による敗血症、さらに白血病を病み、1926年、51歳で詩人はなくなります。
バルタザール少年がリルケと交流した年月は、ちょうど少年が、「少年の日々」を喪失し、大人の世界に入っていく年ごろでした。
リルケは、東洋美術にあこがれる少年に、中国宋時代の山水画集をプレゼントし、バルタザール少年は、東洋の美にますます傾倒していきました。
バルチュスは、猫への偏愛を終生持ち続けました。。1935年の自画像には「猫たちの王」というタイトルをつけました。バルチュスにとって猫はペットでも動物でもなく、「自分の同類」でした。絵の上に現れる猫の姿は、自分自身を投影させている、いわば猫の姿の自画像です。
シャシー古城にひきこもり、義理の姪フレデリック(兄の結婚相手の連れ子)と生活を共にしている間にも、30匹もの猫が城に出入りしていたそうです。
「少女と猫」はバルチュス作品の大きなモチーフでしたが、モチーフというより、「自分自身」でした。
<つづく>

2014/06//11
ぽかぽか春庭@アート散歩>20世紀の画家たち(4)猫たちの王バルチュス
バルチュスの母バラディーヌ(本名エリザベート・ドロテア・スピロ Elisabeth Dorothea Spiro)を生涯最後の恋人とした詩人リルケ(1875-1926)は、作家である友人シャルル・ヴィルドラック(Charles Vildrac、(1882 - 1971)に宛てて、手紙を書きました。日付は、1920年12月13日。
「私の小さな友人(12 歳)が,この度チューリッヒのある出版社から素敵なデッサン集を出すことになったのですが,小生がその序文を書くことになりました。つたない序文です。小生は序文を書くことを誇らしく思っています。というのも,序文をフランス語で書くなんて初めてだからです。
バルチュス少年(ポーランド出身)は画家エリック・クロソウスキー氏の息子さんです。エリックは一頃サン=ジェルマンに住んでおられました。懐かしいでしょう。若干12 歳にして,40 枚の版画で,猫との出会いと別れを,頭の中に残っている残像を拾いながら物語ってくれるのですが,実に魅力的な作品です。この子には天才があります。だから,ささやかですが,出版して世間の目に触れさせてやろうという気になったのです。バルチュスはデッサンしか描いておらず,文章は一切書いていません。ですから,小生が数ページの序文をつければよろしいかと思います(リルケ書簡集)」
出会いーベンチの上で鳴いている捨て猫

喪失ーミツがいなくなり、泣く少年

バルチュスが90歳を過ぎてから回想した幼年時代の記憶によれば、バルタザール少年とリルケは、本当の親子以上に心を通わせあえる仲だったそうです。当時、詩人としてはスランプにあったリルケは、無垢な少年の天分を応援することで、自分自身の才能の復活を探っていたのかもしれません。
「マリアの生涯(Neue Gedichte、1913年)」を世に出してから実に10年も詩が書けないできたリルケは、バルタザール少年の画集「ミツ」にフランス語での序文を書いて以後、復活します。バラの棘に指をさされて死ぬという運命に見舞われるまでの短い復活の時間に、「ドゥイノの悲歌(Duineser Elegien、1923年)」「オルフォイスへのソネット(Die Sonette an Orpheus、1923年)」という傑作を世に出して、バラの棘による敗血症、さらに白血病を病み、1926年、51歳で詩人はなくなります。
バルタザール少年がリルケと交流した年月は、ちょうど少年が、「少年の日々」を喪失し、大人の世界に入っていく年ごろでした。
リルケは、東洋美術にあこがれる少年に、中国宋時代の山水画集をプレゼントし、バルタザール少年は、東洋の美にますます傾倒していきました。
バルチュスは、猫への偏愛を終生持ち続けました。。1935年の自画像には「猫たちの王」というタイトルをつけました。バルチュスにとって猫はペットでも動物でもなく、「自分の同類」でした。絵の上に現れる猫の姿は、自分自身を投影させている、いわば猫の姿の自画像です。
シャシー古城にひきこもり、義理の姪フレデリック(兄の結婚相手の連れ子)と生活を共にしている間にも、30匹もの猫が城に出入りしていたそうです。
「少女と猫」はバルチュス作品の大きなモチーフでしたが、モチーフというより、「自分自身」でした。
<つづく>