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ぽかぽか春庭「ナイロビー東アフリカの裏町で」

2014-12-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014207
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(13)ナイロビ-東アフリカの裏町で

ナイロビ--東アフリカの裏町で
at 2003 10/19 06:58 編集
 毎度若者に「また、あのときの話かよ」と、飽き飽きされても、中高年は青春時代を振り返り、思い出話にふけりたい。
 若者よ!寛恕として「思い出話」を聞きなさい。君たちもいずれは中高年。

 鴎外にとってのドイツ、稲造にとってのアメリカが「青春の地」だったとすると、私の青春の地は、ケニアである。

 1979年7月末の夜、ナイロビに到着。翌朝、まず両替をしようと町に出たら、たちまち迷子になってしまった。そのとき道案内をしてくれた日本人を「親切な人」と勘違いして、2年後に結婚することになった。

 しかし、「外国で親切な人が、家庭でも親切であるとは限らない」ということは、すぐに判明した。

 「ナイロビで迷子になって愛を拾った。今では愛が迷子になってる」という、娘が私のために作ったキャッチコピーを、学生に披露すると大受けだった。

 教師のいいところは、毎年学生が変わるので、同じ思い出話を毎年繰り返しても大丈夫なところ。たまに、同じ話を同じクラスで繰り返して顰蹙を買うこともあるけれど。
 毎年変わる学生に、毎年おなじ自己紹介「ナイロビで迷子になって、、、」を繰り返している。

 ナイロビの下町を、国境の町ナマンガを、海岸の町モンバサを、 後に夫となる人と(その時はそうなるとは思わず)共に歩き回った。サバンナの地平線に沈む夕日を黙って二人で眺めていた時間は、現在「愛が迷子」の状態であるにせよ、私には貴重な思い出だ。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.25
(に)西江雅之『花のある遠景』 (ぬ)の項なし

 私が夫とケニアを歩き回っていた1979年、同じころにナイロビを歩き回っていた人が西江雅之。

 このときはすれ違いばかりで会うことがなかったのだが、私が「子持ち勤労学生」として二度目の大学生活を送ったとき、学部と大学院で西江先生に言語学を教わることができた。大好きな西江先生。著作はもちろん全部読みました。

 『花のある遠景』、初出は1975年。ナイロビの下町の女たち男たちを、生き生きと描いている。
 『ことばを追って』『異郷の景色』『旅人からの便り』『風まかせ』など、先生は風にまかせて世界中神出鬼没。七つの海をがけめぐるパイレーツさながらである。

 ことばの達人西江雅之は、今日もきっと世界中を駆けめぐっているだろう。

 夫が「偽学生」または「子持ち勤労学生のつきそい」として、いっしょに西江先生の授業を聞きに行っていたころのある日、西江雅之編纂「スワヒリ語辞典」を学校に持っていって、「先生、ご署名をいただきたいのですが」と、お願いしたことがあった。

 先生、サインしながら渋い顔。ほかの著書にはごきげんでサインしてくれたのに。

 「これね、海賊版が出回っていて、このあんたの辞書も海賊版だから、こちらには印税一銭も入ってこないの!」

 カリブ海の小島でクレオール言語の研究をした西江先生、カリビアンパイレーツも海賊出版もお嫌いであった。
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20141207
 夫と出会ったナイロビの町。10年ごとにナイロビに戻って、この町がどんなふうに変化していくのか見ようねと、約束をした。夫は結婚後、2度友人とナイロビに出かけたが、私は1度もナイロビの町に戻ることが出来ませんでした。
 子育てで忙しかったし、お金もなかったし。
 もう一度、ケニアのあの真っ青な空の下に立ちたい。ナイロビの町のジャカランタが薄紫に咲き誇る並木の下を歩きたい。
 ボーマスオブケニアで、アフリカンダンスを踊りたい。

<つづく>
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