20141227
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記師走(4)ひとり忘年会 in 横浜三渓園
1年間まじめに働いて、職場の人と飲む忘年会のお酒、おいしいことでしょうね。週に5日間、5つの大学の7つのクラスで、日本語学、日本語教育学、日本語初級文法を教えて、ひたすらオノレの仕事をまっとうしてきたつもりの春庭ですが、忘年会をする「職場の人」はいません。「所属」を持たない一匹狼、仕事納めの忘年会も一人打ち上げです。
ダンス仲間との忘年会は、12月20日土曜日に、パスタ店でやったのですが、25日木曜日に、年内の仕事を全部終えたので、26日に「今年もよく働きました」という一人忘年会を挙行いたしました。
よく働いたと言っても、いつも失敗ばかりの春庭。学生出欠のパソコン入力を忘れてしまったり、宿題を学生に渡しそこねたり、同僚のカバー、フォローをもらってのかろうじての仕事完了ですから、忘年会して「よくがんばりました」なんて言えた義理ではないのですが。
招待券がぎりぎり12月28日までだった、横浜三渓園。前回の12月の行楽、浜離宮に娘息子を連れて行ったら「浜風にあたって風邪引いた」と娘が言うので、今回はおひとり様で。
横浜三渓園は、20年近くまえに、中国の友人を案内して「横浜鎌倉バスツアー」というバスハイキングに行ったおりに、ほんの30分ほど、お庭をちょこちょこっと見ただけだったので、ゆっくり建物を見たいと思っていたのです。
六義園や後楽園は仕事帰りにも気楽に立ち寄れるのですが、横浜はちょっと遠出になります。
26日、もらった「入園招待券」を確認して、12時出発。地下鉄乗り継いで横浜へ。
横浜駅からバスで本牧下車。巡回中のおまわりさんに道を確認して三渓園に入りました。
三渓園は、明治から昭和初期にかけて財界で活躍した原富太郎(号は三渓)によって設立公開されました。原三渓は、富岡製糸場などによる生糸の製造輸出、横浜銀行経営などで財を成した人です。美術品を収集し、日本各地の建物を買い集めて移築した三渓園を横浜市に寄贈しました。
重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟の歴史的に価値の高い建造物が175,000m2に配置され、「名勝」として国の指定を受けています。
内苑の臨春閣

午後1時すぎに入園すると、園内に何組かの花嫁花婿の撮影会が目に入りました。近頃は、結婚披露宴の間に、前撮りした花嫁花婿の写真を上映するのがはやりなのだそうです。三渓園のお庭で寄り添う二人の姿、とても幸せそう。池のほとりや由緒正しき建物の前でポーズをとるカップルに、幸せ気分をお裾分けしてもらいました。
花婿が外国人の国際結婚カップルに、外国人観光客が「写真をとってもいいか」ときくと、花婿は「どうぞどうぞ」と言うので、ついでに私もとらせていただきました。
午後2時から、ボランティアガイドさんの説明を受けて園内を回ることにしました。ボランティアの綿貫さん、ガイドと庭園樹木の管理の両方を引き受けているそうです。群馬県出身という自己紹介に、客のひとりも「私は群馬の妙義生まれ」と言うので、「私も群馬です」と名乗りを上げました。
ガイドさんは、「もう2週間早く来園なされば、紅葉がとてもきれいでした」と、iパッドの写真を見せてくれました。ところどころに名残の色合いが残ってはいましたが、紅葉の景色は来年の楽しみにして、ということで、内苑を見て回りました。
臨春閣の室内とつくばい


明治時代の開園当初から、原三渓は池を中心とした外苑を、一般公開していました。内苑の建物は、原三渓が居住したプライベート地域です。今は、どちらも横浜市の管轄になっています。
明治初期の廃仏毀釈の時代、寺の建物や古い御殿が売りに出され、売れなければただ打ち壊してしまう、という事態が各地に起こりました。原三渓は一棟また一棟と買い集め、移築修復をしていきました。
園内の建物17棟のうち10棟が重要文化財、3棟が横浜市指定有形文化財に指定されています。
聴秋閣

ガイドさんが、それぞれの建物の見所などを説明してくれました。「この建物を、原三渓は桃山時代の建物と信じて購入し、桃山御門と呼んでいたのですが、建築家の調査で江戸時代中期の建築と判明しました。現在は桃山を取ってただ、御門と呼ばれています」とか。
園内の建物は、特別な公開時期でなければ内部見学はできないのですが、白川郷から移築した旧矢箆原家住宅は、中を見学できます。合掌造りの屋根の裏側もじっくり見ることができました。内部には、古い農具や調度品が展示されています。
合掌造り。旧矢箆原家住宅


園内の小高い丘にある三重塔は、京都木津川の廃寺旧燈明寺からの移築だそうです。

この丘の海側には展望台があります。昔は海を眺められてよい景色だったのでしょうが、現在の海側の眺めは、工場群。工場萌えの人にはよい眺めなのかも知れませんけれど。

大池には鴨や鷺がいました。
大池から夕暮れの中ににシルエットをみせる三重塔をながめ、退園しました。

来年からの生活のどん底を思って鬱屈していましたが、また来年は来年で出直し、と、思うことにしました。
<つづく>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記師走(4)ひとり忘年会 in 横浜三渓園
1年間まじめに働いて、職場の人と飲む忘年会のお酒、おいしいことでしょうね。週に5日間、5つの大学の7つのクラスで、日本語学、日本語教育学、日本語初級文法を教えて、ひたすらオノレの仕事をまっとうしてきたつもりの春庭ですが、忘年会をする「職場の人」はいません。「所属」を持たない一匹狼、仕事納めの忘年会も一人打ち上げです。
ダンス仲間との忘年会は、12月20日土曜日に、パスタ店でやったのですが、25日木曜日に、年内の仕事を全部終えたので、26日に「今年もよく働きました」という一人忘年会を挙行いたしました。
よく働いたと言っても、いつも失敗ばかりの春庭。学生出欠のパソコン入力を忘れてしまったり、宿題を学生に渡しそこねたり、同僚のカバー、フォローをもらってのかろうじての仕事完了ですから、忘年会して「よくがんばりました」なんて言えた義理ではないのですが。
招待券がぎりぎり12月28日までだった、横浜三渓園。前回の12月の行楽、浜離宮に娘息子を連れて行ったら「浜風にあたって風邪引いた」と娘が言うので、今回はおひとり様で。
横浜三渓園は、20年近くまえに、中国の友人を案内して「横浜鎌倉バスツアー」というバスハイキングに行ったおりに、ほんの30分ほど、お庭をちょこちょこっと見ただけだったので、ゆっくり建物を見たいと思っていたのです。
六義園や後楽園は仕事帰りにも気楽に立ち寄れるのですが、横浜はちょっと遠出になります。
26日、もらった「入園招待券」を確認して、12時出発。地下鉄乗り継いで横浜へ。
横浜駅からバスで本牧下車。巡回中のおまわりさんに道を確認して三渓園に入りました。
三渓園は、明治から昭和初期にかけて財界で活躍した原富太郎(号は三渓)によって設立公開されました。原三渓は、富岡製糸場などによる生糸の製造輸出、横浜銀行経営などで財を成した人です。美術品を収集し、日本各地の建物を買い集めて移築した三渓園を横浜市に寄贈しました。
重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟の歴史的に価値の高い建造物が175,000m2に配置され、「名勝」として国の指定を受けています。
内苑の臨春閣

午後1時すぎに入園すると、園内に何組かの花嫁花婿の撮影会が目に入りました。近頃は、結婚披露宴の間に、前撮りした花嫁花婿の写真を上映するのがはやりなのだそうです。三渓園のお庭で寄り添う二人の姿、とても幸せそう。池のほとりや由緒正しき建物の前でポーズをとるカップルに、幸せ気分をお裾分けしてもらいました。
花婿が外国人の国際結婚カップルに、外国人観光客が「写真をとってもいいか」ときくと、花婿は「どうぞどうぞ」と言うので、ついでに私もとらせていただきました。
午後2時から、ボランティアガイドさんの説明を受けて園内を回ることにしました。ボランティアの綿貫さん、ガイドと庭園樹木の管理の両方を引き受けているそうです。群馬県出身という自己紹介に、客のひとりも「私は群馬の妙義生まれ」と言うので、「私も群馬です」と名乗りを上げました。
ガイドさんは、「もう2週間早く来園なされば、紅葉がとてもきれいでした」と、iパッドの写真を見せてくれました。ところどころに名残の色合いが残ってはいましたが、紅葉の景色は来年の楽しみにして、ということで、内苑を見て回りました。
臨春閣の室内とつくばい


明治時代の開園当初から、原三渓は池を中心とした外苑を、一般公開していました。内苑の建物は、原三渓が居住したプライベート地域です。今は、どちらも横浜市の管轄になっています。
明治初期の廃仏毀釈の時代、寺の建物や古い御殿が売りに出され、売れなければただ打ち壊してしまう、という事態が各地に起こりました。原三渓は一棟また一棟と買い集め、移築修復をしていきました。
園内の建物17棟のうち10棟が重要文化財、3棟が横浜市指定有形文化財に指定されています。
聴秋閣

ガイドさんが、それぞれの建物の見所などを説明してくれました。「この建物を、原三渓は桃山時代の建物と信じて購入し、桃山御門と呼んでいたのですが、建築家の調査で江戸時代中期の建築と判明しました。現在は桃山を取ってただ、御門と呼ばれています」とか。
園内の建物は、特別な公開時期でなければ内部見学はできないのですが、白川郷から移築した旧矢箆原家住宅は、中を見学できます。合掌造りの屋根の裏側もじっくり見ることができました。内部には、古い農具や調度品が展示されています。
合掌造り。旧矢箆原家住宅


園内の小高い丘にある三重塔は、京都木津川の廃寺旧燈明寺からの移築だそうです。

この丘の海側には展望台があります。昔は海を眺められてよい景色だったのでしょうが、現在の海側の眺めは、工場群。工場萌えの人にはよい眺めなのかも知れませんけれど。

大池には鴨や鷺がいました。
大池から夕暮れの中ににシルエットをみせる三重塔をながめ、退園しました。

来年からの生活のどん底を思って鬱屈していましたが、また来年は来年で出直し、と、思うことにしました。
<つづく>