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ぽかぽか春庭「年の残りはレビトラで元気!」

2014-12-21 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141221
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(23)年の残りはレビトラで元気!

年の残りはレビトラで元気!
at 2003 10/29 06:17 編集
 ある人々にとっては「朗報!」になるかもしれない新聞記事。
 2003/10/15付の「レビトラ 来春にも発売」というニュースである。
 レビトラは、「バイアグラが十分に効かなかった人」にも効果を上げたというED治療薬。服用後すぐ効果があらわれる人もいて、バイアグラ以上の売れ上げが期待されている。どうです?朗報でしたか?
 10/27に書いたように、女性は、灰になるまで、、、である。一方男性は、人によりけり。 ウイスキーの銘柄である「オールド・パー」の顔として有名なイギリスの農夫トーマス・パー(1483~1635)は、122才で再婚して、152歳まで生きたという伝説的な人。

 死去する前には、チャールズ1世の謁見を受ける栄誉も得た。当時のイギリスは公文書がしっかり記録されてきた時期で、パーじいさんの生年没年も、土地の借用証書をもとにはっきりたどれるのだという。ルーベンスやバン・ダイクが描いた肖像画もある。

 オールド・パーまではいかなくても、70歳すぎて子供をもうける男性がいることは、ときどき話題になる。お元気ですねぇ。

 そういう元気な人の話を、聞けば聞くほど元気じゃなくなってしまう男性もいるし、ある種の考え方の人たちにとって、「男の元気」といえば、もう「その一点」しか考えられないという話も聞く。
 私たち女性に言わせれば、「元気」って、それだけじゃないんじゃないの?と思う。自分の男性としての魅力が性的な活力だけであり、それしか誇れないとしたら、それは女性から見たら、こっけいで寂しい事なのではないかと思うのだが。当の男性にとっては、一番の関心事であり、絶対に必要不可欠な能力なのだろうか。

 画家のパブロ・ピカソは80歳のときに45歳年下のジャクリーヌ・ロックと再婚し、90歳で死去するまで活力に満ちた作品を制作した。ジャクリーヌと交わされる細やかでゆったりした愛情がピカソに制作の意欲をわかせたのだろうし、ジャクリーヌにとって、ピカソは「あらゆる意味で魅力に富んだ男性」であったろう。

 そんな天才の話は特別であるとして、凡夫匹夫とめあわされた我ら凡婦匹婦にとって、どうなのか。私個人の意見としては、バイアグラやレビトラで復活する男性の魅力は、ごく一部分であると思う。

 もちろん、発売元のバイエル薬品が広告費を回してくれるというなら、私は声を大にして言うよ。「レビトラ飲んで、うちとら元気!甲子園では虎ファン元気、ホークスあぶさん景虎元気、景気回復レビ虎とら!」

 もう、こんなに宣伝したのだから、せめてバイエル薬品から「お礼の現物給与」がこないかしら。こないよねぇ。はい、お察しのとおり、我が家の「その一点」意気消沈してます。

 古女房がいくら元気いっぱいで「女は灰になるまで」と主張しても、灰のような白髪頭ふりみだし三段腹ゆすってノシ歩いていては、亭主ますます元気がなるなる、というご批評、ごもっともであります、、、、。

 だがしかし、しかるにやはり、されどまた、女の魅力は若さだけでなく、男の魅力は「その1点」だけじゃ、ありません!

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.36
(ま)丸谷才一『年の残り』

 丸谷才一が『年の残り』で芥川賞を受賞した1968年、私は高校生だった。この小説中の登場人物でいえば、高校一年生の後藤正也の年齢に近かった。正也は、自分の大伯母と若い頃見合いをしたことのある69歳の医師上原から、若い頃描いた絵を見せられる。

 このころ読んだとしたら、少女の私には、旧友を自殺という手段で失った上原の悲しみも、自身の男性能力のおとろえや画才不足の自覚から猟銃で自殺した洋菓子店の大旦那の苦しみも、よくわからなかったろう。
 私がこの本を読んだのは、1976年第2刷の文庫本である。私は中学校の国語教師となっていたが、それでもやはり、よくはわからなかった。

 父親から継いだ和菓子店を洋菓子店に変え、一代で商売を大きくした多比良が、「芸者と夜をすごしたあと、事後の肢体をスケッチする」という楽しみを失うことで、自殺に至るとは、どういうことなのか、それほど重大なことなのか、わからなかった。

 私に理解できたのは、「自分のスケッチ作品がロダンからの間接的な影響下にあることに気づかされ、確実にロダンの才能には及ばない画才しかないことをつきつけられたこと」が、多比良が死を選ぶ原因になったのだろうということだけ。

 「事後、女性肢体を描く、と期待することが、ことに及ぶ興奮材料となり、生きていく元気の源だった」と、老院長が解説するのを読んでも、画才のないのを悲観するのはわかるけど、性的能力の衰えが、生きる活力を失わせるほど重要なものであるという感覚はわからなかった。(このころは私もウブでしたね!)

 ようやく、老いていく上原の悲しみも、生きる気力を失う多比良の苦しみも、わかる年齢になった。

 母を失った後、「生きる意味」もわからなくなり、父にいわれるままに中学校教師になったものの、自分の資質が教師に向かない性質であったことを自覚する毎日。
 ネクラでオタクな引きこもりでした。「母の作品を集めて句集を出版する」という目標によって、ようやく「あと追い自殺」を思いとどまったけれど、教師の仕事もうまくいかず、生きる希望はなかった。

 中学校で受け持った演劇部の仕事だけが、かろうじて私を生につなぎとめていた。
 演劇の身体訓練を中学生に教えるため、自分でもモダンバレエのレッスンを受け、発声練習のために「視覚障害者のための朗読奉仕員養成講座」を受講した。以来、ダンスと朗読ボランティアは四半世紀続けている。

 中学校は3年で退職した。母校にもどり、大学院の研究生として演劇学、芸能人類学を学ぶことにした。舞踊評論家市川雅に師事して、ダンスを見ることに熱中した。

 民族芸能学、演劇人類学のフィールドワークの地として、パプアニューギニアに行きたかったが、結局、渡航先がケニアになったことは、10/21の項に記した通り。

 ケニアで民族ダンスを練習したけれど、教師として能力がなかったのと同じように、民族文化研究者としても何の能力もないことが判明しただけで、帰国。

 ケニアですごした中の唯一の自慢は、テレビドラマのエキストラとして出演したこと。当時大人気だった『熱中時代』という水谷豊主演ドラマのスペシャル篇ロケがケニアで行われ、淺野ゆう子の友だち役としていっしょにテレビに映ったのだ。

 その頃20歳前後で、アイドル歌手としても女優としても中途半端だった淺野ゆう子が、今や押しも押されもせぬ実力派女優になり、現在NHK朝ドラの「てるてる家族」の照子さん役で活躍している。

 私はケニアから帰国したあとも、自分の方向性を見つけることができず、「アフリカ縦断旅行へ出発する」という目標を作り上げた。旅回り一座の役者、予備校試験採点係りなど、旅行費用を稼ぐ日々が続く。

 ようやく資金が貯まり、ランドローバーを買って船でフランスの港へと送り出した。ジブラルタル海峡を越えてアフリカへ。モロッコからナイロビまでランドローバーで縦断後、ナイロビで出会ったふたりが記念の地で結婚式をあげる、という計画だった。

 しかし、出発前に「できちゃった婚」をするはめになり、アフリカ縦断はキャンセル。なんでそんな結果になったか。そのころ「その1点」は、おおいに元気でありました!

蛇の足跡・一足目:上記のオチは、ひさしぶりに決まって、レビトラに感謝!しかし、このようなオチをつけると、10/27「灰になるまで」のとき「僕の酸素をあげよう」「灰になるまで燃やしてやるよ」などの、足跡やメールを頂戴したのと同じことになるかと、今から「うれしい悲鳴」をあげておる。「キャー、お代官さま、ご無体ナー!」

 あらかじめ、そのタグイの足跡・メールへのレスをつけておく。「灰になるまで」のときの「好意謝するにあまりあれどもレス」と同じ文言である。
 「あんたじゃなくて、辺見庸がいいのよぉ」

 あのね、これは、へんみよう、とイイノヨーのようとヨーが、その、、、せめて座布団をいち、、、あれ?このオチはすでに使ったっけ。

蛇の足跡二足目:寒川猫持「尻舐めた舌でわが口舐める猫 好意謝するに余りあれども」の上の句付け替えてメールください。猫持以上に笑わせてくれた方には、「辺見庸が、、、」ではないレスつけます!舐めんなよ!

<つづく>
コメント (4)
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