20141213
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(17)友が皆、我よりえらく見える日は
友が皆、我よりえらく見える日は
at 2003 10/23 05:59 編集
石川啄木「友が皆、我よりえらく見える日は花を買い来て妻としたしむ」『一握の砂』より。
中高年になると、いそいそとクラス会に出席する人が多くなる。童心にかえって昔の遊び仲間とつるんでみたり、ほのかな恋心を感じた人に再会したり。
10/22に、私が初恋の人と再会したのはテレビを見てのことだった、という話を書いた。テレビの中の初恋の人がいくらステキでも、ことばは交わせない。
クラス会の一番の楽しみは、昔好きだった人に会うことだ、という。ときめきが戻ってくるだろうか。
クラス会の楽しみ、ほかにもいろいろ。学校時代はケムたかったライバルと、今は心おきなく話せるようになってうれしい、と言う人もいるし、かってのライバルから再び自慢話を聞かされるのがいやだから、クラス会など行きたくないと言う人も。
私がクラス会に出席したのは、小、中、高を通じて1度だけ。数年前に、女子高校同級生に会った。女子校2,3年持ち上がりのクラス。青春の2年間をともに生きた人たち。
なつかしい顔、忘れていた顔の近況報告が続く。「教頭職、3年目になり頑張っています」「このたび、校長になりました」「教育委員会へ転出です」
女子校の50人のクラスメート、半数近くが教職を選んだ。女性が結婚後も働き続けるには、教職を選ぶ以外の選択がむずかしい時代だったのだ。
主婦になった人の近況報告。「パイロットの夫が早期退職をしたので、夫婦で海外旅行三昧です」「夫の会社が業績順調で、副社長の私も忙しくて」などなど。
はい、はい、私の近況報告。息子は未熟児生まれで虚弱、娘は不登校。夫が自営する会社は借金まみれ、自分は万年「日雇取り仕事」
しょうもない自分の人生であっても、けっして嫌いじゃないし、いとおしくさえ思うことがある。だが、「負けっ放し人生」にときどき倦み、アマデウスに嫉妬するサリエリの気持ちがわかる日もある。
人は人、自分は自分と思ってはいる。だが、「ああいう人生がよかった」と、うらやましく思う人が現実に眼の前にいたら、、、
私は、自分がそうなりたかった生き方を、すいすいと涼しい顔で実現してしまった同級生を持つ。彼女は、美女で才女。夫もハンサム。かわいい娘もすくすくと成長し、親の思い通りの進路を選ぶ。出版した本は高い評価を受け、大学教授の仕事も順調。
対する私は、子育てに苦しみ、「家庭向きではない夫」に悩み、仕事はうまくいかず、収入は最底辺、、、花を買う金もなかった。「花を買い来て妻としたしめた啄木は、まだマシじゃわい」と、ぼやく日々。
私のライバルは、10/10「悪霊の町」の項で書いた「スター小間物店の娘」である。中学校の文芸部では、お互いの作品を誉めあったり、けなしあったり。高校の予餞会余興では、隣あって立ち、いっしょに歌い、おどった。
いつもネクラで愛想のない私に比べて、彼女は商家の娘らしい華やかな愛嬌をふりまき、美人で頭がよかった。彼女が学生結婚したとき、もう一人のまもなく結婚する高校のクラスメートといっしょに結婚式に参列した。若く美しく花嫁だった。すぐに子供に恵まれたが、実家の家族や夫の協力を得て、大学院へ進んだ。
彼女の出世作『姉の力--樋口一葉』を読んだとき、半分は内容のすばらしさにうたれ、半分は「私もこういう本を書きたかったのに」という思いにうちのめされていた。
ライバルが遙か先へ進んでゆくのを横目で見ながら、私は二人の子を抱え孤軍奮闘した。日本語教師をしながら、大学、大学院に通い、家事育児は一人で全部やった。
年中「父さんは倒産しそう」と言っている夫が自営する会社は、仕事をすればするほど借金が増えていくのみ。
日本語教師の仕事の合間、土曜日曜、夏休み冬休みには夫の仕事を手伝って走り回った。
そんな毎日の中でクラスメートの初出版成功を知っても、ハガキ一枚、祝う余裕もなかった。
『姉の力』が出版されたとき、私はようよう修士号を得たものの、子連れであることや年齢が高いことから、就職先などはなかった。
修士論文執筆に専念するため日本語学校教師の仕事をやめたあと、再就職のあては何もなかった。紀要に発表した論文は高い評価を受け、「国語学界展望」に名前が載ったが、それだけだった。
「単身赴任が条件の仕事ならあるけど」と言われたが、すぐには決心できなかった。夫からは「子供を残して行くなら、僕は世話できないから、児童施設に放り込むよ」と言われたからだ。実家にすがるしかなかった。
「一度でいいから、転校ってしてみたい」と無邪気に「転校生」生活にあこがれる娘に「ねぇ、転校するチャンスがあるんだけど」と、おそるおそる切り出すところからスタートし、中国での単身赴任へと出発した。
「スター小間物店の娘」に年賀状を書いたのは、それからさらに3年もたってからである。彼女の新著『語る女たちの時代』が、またまたすばらしい著作であったことに感激してのハガキだった。
才能ある人をうらやんでいる才無き人に対して「うらやんでいないで、自分も追いつけるよう努力したらいいじゃない」という人もいる。努力で追いつけたら、うらやんでいない。
一流の人は、どのような環境であっても、何ごとか成し遂げる人、例をあげるなら樋口一葉。貧困と病苦の中で、あれほどの小説、日記を書き残した。
努力家だなあ、一生懸命がんばっているなあと、人が感心する人は一流半。田邊花圃は、一葉死後の思い出話を書くときさえ、一葉をライバル視した文を書いたが、ついにライバルには及ばなかった。
どんなに努力しても、自分の才は足りないと自覚できる人は三流。努力すればいつか自分も一流になれると無邪気に信じられる人は、五流にもなれない。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.30
(ひ)樋口一葉『一葉日記』
一葉日記の中に、萩の舎歌会の記述がある。歌の互選で一席を獲得したなつ子(のちの一葉)に、田邊龍子(花圃)が「ああ、にくらしい、新入りに一番をとられた」と悔しがった、というエピソードが書かれているのだ。
田邊花圃は、萩の舎の姉弟子。一葉の小説が今も愛読されているのに比べて、現在、彼女の小説『藪の鶯』を読む人は、明治女性史女性文学研究をする人だけかもしれない。花圃の文学史上の価値は「花圃の小説の成功が一葉を刺激し、一葉に作家を志すきっかけを与えた」としてであろう。
草場の蔭から、萩の舎の歌会のときのように「ああ、にくらしい、後輩に五千円札の顔をとられた」と、言っているかどうかわからないが。
努力だけでもなし、運だけでもない。しかも、才能を神が采配してくれたかどうかは、墓に入った後50年もしないとはっきりとはわからない。死後50年、著作権も切れた後で、その人の作品に価値があるかどうか、後の世の人が決めるだろう。
一葉忌ねたみ隠さぬ友とゐて 春庭
五流にもなれない私の人生だが、吾流として生きていくことにしよう。
あのね、ここのところは、ごりゅうとゴリュウというのが、その、、、せめて座布団一枚ください。アレレッ、それは最後の一枚、取り上げるなんてひどい、、、
、
<つづく>
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(17)友が皆、我よりえらく見える日は
友が皆、我よりえらく見える日は
at 2003 10/23 05:59 編集
石川啄木「友が皆、我よりえらく見える日は花を買い来て妻としたしむ」『一握の砂』より。
中高年になると、いそいそとクラス会に出席する人が多くなる。童心にかえって昔の遊び仲間とつるんでみたり、ほのかな恋心を感じた人に再会したり。
10/22に、私が初恋の人と再会したのはテレビを見てのことだった、という話を書いた。テレビの中の初恋の人がいくらステキでも、ことばは交わせない。
クラス会の一番の楽しみは、昔好きだった人に会うことだ、という。ときめきが戻ってくるだろうか。
クラス会の楽しみ、ほかにもいろいろ。学校時代はケムたかったライバルと、今は心おきなく話せるようになってうれしい、と言う人もいるし、かってのライバルから再び自慢話を聞かされるのがいやだから、クラス会など行きたくないと言う人も。
私がクラス会に出席したのは、小、中、高を通じて1度だけ。数年前に、女子高校同級生に会った。女子校2,3年持ち上がりのクラス。青春の2年間をともに生きた人たち。
なつかしい顔、忘れていた顔の近況報告が続く。「教頭職、3年目になり頑張っています」「このたび、校長になりました」「教育委員会へ転出です」
女子校の50人のクラスメート、半数近くが教職を選んだ。女性が結婚後も働き続けるには、教職を選ぶ以外の選択がむずかしい時代だったのだ。
主婦になった人の近況報告。「パイロットの夫が早期退職をしたので、夫婦で海外旅行三昧です」「夫の会社が業績順調で、副社長の私も忙しくて」などなど。
はい、はい、私の近況報告。息子は未熟児生まれで虚弱、娘は不登校。夫が自営する会社は借金まみれ、自分は万年「日雇取り仕事」
しょうもない自分の人生であっても、けっして嫌いじゃないし、いとおしくさえ思うことがある。だが、「負けっ放し人生」にときどき倦み、アマデウスに嫉妬するサリエリの気持ちがわかる日もある。
人は人、自分は自分と思ってはいる。だが、「ああいう人生がよかった」と、うらやましく思う人が現実に眼の前にいたら、、、
私は、自分がそうなりたかった生き方を、すいすいと涼しい顔で実現してしまった同級生を持つ。彼女は、美女で才女。夫もハンサム。かわいい娘もすくすくと成長し、親の思い通りの進路を選ぶ。出版した本は高い評価を受け、大学教授の仕事も順調。
対する私は、子育てに苦しみ、「家庭向きではない夫」に悩み、仕事はうまくいかず、収入は最底辺、、、花を買う金もなかった。「花を買い来て妻としたしめた啄木は、まだマシじゃわい」と、ぼやく日々。
私のライバルは、10/10「悪霊の町」の項で書いた「スター小間物店の娘」である。中学校の文芸部では、お互いの作品を誉めあったり、けなしあったり。高校の予餞会余興では、隣あって立ち、いっしょに歌い、おどった。
いつもネクラで愛想のない私に比べて、彼女は商家の娘らしい華やかな愛嬌をふりまき、美人で頭がよかった。彼女が学生結婚したとき、もう一人のまもなく結婚する高校のクラスメートといっしょに結婚式に参列した。若く美しく花嫁だった。すぐに子供に恵まれたが、実家の家族や夫の協力を得て、大学院へ進んだ。
彼女の出世作『姉の力--樋口一葉』を読んだとき、半分は内容のすばらしさにうたれ、半分は「私もこういう本を書きたかったのに」という思いにうちのめされていた。
ライバルが遙か先へ進んでゆくのを横目で見ながら、私は二人の子を抱え孤軍奮闘した。日本語教師をしながら、大学、大学院に通い、家事育児は一人で全部やった。
年中「父さんは倒産しそう」と言っている夫が自営する会社は、仕事をすればするほど借金が増えていくのみ。
日本語教師の仕事の合間、土曜日曜、夏休み冬休みには夫の仕事を手伝って走り回った。
そんな毎日の中でクラスメートの初出版成功を知っても、ハガキ一枚、祝う余裕もなかった。
『姉の力』が出版されたとき、私はようよう修士号を得たものの、子連れであることや年齢が高いことから、就職先などはなかった。
修士論文執筆に専念するため日本語学校教師の仕事をやめたあと、再就職のあては何もなかった。紀要に発表した論文は高い評価を受け、「国語学界展望」に名前が載ったが、それだけだった。
「単身赴任が条件の仕事ならあるけど」と言われたが、すぐには決心できなかった。夫からは「子供を残して行くなら、僕は世話できないから、児童施設に放り込むよ」と言われたからだ。実家にすがるしかなかった。
「一度でいいから、転校ってしてみたい」と無邪気に「転校生」生活にあこがれる娘に「ねぇ、転校するチャンスがあるんだけど」と、おそるおそる切り出すところからスタートし、中国での単身赴任へと出発した。
「スター小間物店の娘」に年賀状を書いたのは、それからさらに3年もたってからである。彼女の新著『語る女たちの時代』が、またまたすばらしい著作であったことに感激してのハガキだった。
才能ある人をうらやんでいる才無き人に対して「うらやんでいないで、自分も追いつけるよう努力したらいいじゃない」という人もいる。努力で追いつけたら、うらやんでいない。
一流の人は、どのような環境であっても、何ごとか成し遂げる人、例をあげるなら樋口一葉。貧困と病苦の中で、あれほどの小説、日記を書き残した。
努力家だなあ、一生懸命がんばっているなあと、人が感心する人は一流半。田邊花圃は、一葉死後の思い出話を書くときさえ、一葉をライバル視した文を書いたが、ついにライバルには及ばなかった。
どんなに努力しても、自分の才は足りないと自覚できる人は三流。努力すればいつか自分も一流になれると無邪気に信じられる人は、五流にもなれない。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.30
(ひ)樋口一葉『一葉日記』
一葉日記の中に、萩の舎歌会の記述がある。歌の互選で一席を獲得したなつ子(のちの一葉)に、田邊龍子(花圃)が「ああ、にくらしい、新入りに一番をとられた」と悔しがった、というエピソードが書かれているのだ。
田邊花圃は、萩の舎の姉弟子。一葉の小説が今も愛読されているのに比べて、現在、彼女の小説『藪の鶯』を読む人は、明治女性史女性文学研究をする人だけかもしれない。花圃の文学史上の価値は「花圃の小説の成功が一葉を刺激し、一葉に作家を志すきっかけを与えた」としてであろう。
草場の蔭から、萩の舎の歌会のときのように「ああ、にくらしい、後輩に五千円札の顔をとられた」と、言っているかどうかわからないが。
努力だけでもなし、運だけでもない。しかも、才能を神が采配してくれたかどうかは、墓に入った後50年もしないとはっきりとはわからない。死後50年、著作権も切れた後で、その人の作品に価値があるかどうか、後の世の人が決めるだろう。
一葉忌ねたみ隠さぬ友とゐて 春庭
五流にもなれない私の人生だが、吾流として生きていくことにしよう。
あのね、ここのところは、ごりゅうとゴリュウというのが、その、、、せめて座布団一枚ください。アレレッ、それは最後の一枚、取り上げるなんてひどい、、、
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<つづく>