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ぽかぽか春庭「働く女性と元始の太陽」

2014-12-14 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141214
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(18)働く女性と元始の太陽

働く女と元始の太陽
at 2003 10/24 06:29 編集
 10/23の項で書いたように、私の女子校クラスメートの多くは教職を選んだ。30年前に男女が差別なく働くことができ、産休などもとりやすかった職場は、教職以外少なかったからである。
 私自身、こうなるつもりではなかったのに、中学校教師、大学講師と、結局は教職を続けている。(転職13回の中で、つまるところ教職が一番長く続いた仕事になった)

 私の母の世代では、専業主婦になることがステイタスであった。
 「月給取り」の妻となった私の母を、人は「幸せ者」と見ていたが、母自身は「専業主婦の座」を不自由なものと考えていた。
 母は、月に一度の句会に出席するときも、夫の酒肴おこたりなく、夕食の準備をすべてととのえ、それでも遠慮しいしい出かけていった。娘三人には、「女一人で生きていける技能」を身につけるよう、繰り返し説いた。

 姉は高校卒業後、専門学校に進学して手に職をつけた。結婚後も離婚後も自分の技術で生きていくことができた。「娘を4年制大学に出したら、嫁に行き遅れる」と、思われていた時代だったが、私は最初から「独身で仕事ひとすじに生きるだろう」と、周囲に思われていた
 「こんな愛想のない、かわいげのない子は、勉強でもさせておくほか、使い道はない」と思われていたのだ。

 結婚したとき、お祝いのことばの代わりに「象牙の塔にこもって学者になるんだって言ってたのに、結婚するなんて思わなかった」と、親戚中から「予定外の結婚式ご祝儀出費」についての感想が寄せられた。

 国語科教師を退職するとき、「やっぱり教師じゃなく、学者になる」と言い、大学院へ行くことを退職のいいわけにした。母亡きあと、母がわりにと後見の目を光らせている、うるさがたの叔父伯母を納得させるためだった。
 結婚後は、家から自転車で15分のところにある国立の大学と大学院で勉学を続けることにした。

 修士論文を書いたときは子供を二人抱えていた。育児家事をひとりでこなし、日本語教師の仕事を続ける中での勉学。二足のわらじと下駄と靴をはきかえ脱ぎかえという生活は忙しすぎたが、仕事をすることも、子供を育てることも、どちらも大事な私の人生だった。

 1995年に男女雇用機会均等法が成立して、18年がたつ。私が働き始めた70年代に比べれば、女性が働く環境は、はるかによくなった。まだまだ問題点が多いし、法律と社会の実体は異なるのが実情であるが、少なくとも、法律上、一応は男女の機会均等が保証されている。

 働く女にとって、子育てと仕事の両立は常に大きな問題であった。ときとして大きな議論がわき起こるのも、それだけ重要な話題だったからだろう。
 少し前なら、1988年の「アグネス論争」を思い出す。昔をたどれば、大正時代の与謝野晶子と平塚らいてうの「母性保護論争」が有名。

 家事労働への評価。子育てを社会共通の仕事とするか、母親が単独で責任を負うべき仕事なのか。子育て中の親を社会が支援する方法、などをめぐって、雷鳥晶子の間に、激しい応酬が繰り広げられた。
 この論争を批判的にみれば、双方に論旨のほころびがある。晶子も雷鳥も、当時としては高い教育を受けた恵まれた階層出身の女性であり、自分自身の仕事を継続するために、女中を雇うことのできる人だった。

 らいてうの「社会の為になる子産み・子育て」論は、「国家社会と人的資産の再生産の関わり」に危険をはらむものだったし、晶子の「女子が働けば労働時間が短縮され、男女とも経済以外の分野に創造性を発揮できる」という論も、その前に解決すべきさまざまな障害を前にして、楽観的すぎた。

 晶子の主張する自助努力ができる女性は、当時限られた存在であり、大多数の女性は教育を受ける機会もなく、底辺でのたうち回りながら、必死に働き、子を育てるしかなかった。とは言っても、現在の視点からのみ、晶子雷鳥を批判することはできない。過去の女性達の闘争や実践によって、現在私たち女性が生きていける環境が作られてきたのだから。

 「子産み・子育ては社会にとって重要な問題であり、それに対して社会は支払いをすべきである」という雷鳥の指摘は、現在の産休育児休暇や保育制度などにつながる重要なものであった。雷鳥の論理は、批判点を多く抱えながらも、後の時代を切り開く視点をもっていたと言えるだろう。

 青とう(革+沓)創刊のことばとして雷鳥が「元始女性は太陽であった」と謳いあげて以来、女性は青白い月として生きるよりも、自ら輝く太陽へと顔を向けて生きることを選べるようになったのだ。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.31
(ひ)平塚雷鳥『元始女性は太陽であった』
 2002年に、雷鳥の伝記ドキュメンタリー映画を岩波ホールで見た。写真やニュース映画に残る雷鳥の姿、雷鳥の周囲の人々の証言フィルムなどで構成された、貴重な記録だった。映画を見終わって、羽田澄子監督の描き出す雷鳥の姿に、ある種の「もどかしさ」のような印象が残った。雷鳥は一度として「労働」に近づいたことのない人だったことを、羽田は鋭く描きだしていていたからである。

 唯一雷鳥が「労働する女達」に近づいたのは、市川房枝の同行を得て、女工が働く場へ足を運んだときだけだった。らいてうは、「若いつばめ」との結婚後も、理解ある母親に庇護され援助される「お嬢様」の暮らしを続けた人だった。

 雷鳥の生涯への証言者として登場する櫛田ふき等、労働の現場から発言を続けた女性に比べると、私にとってはやはり「ちょっと遠い人」という印象をぬぐえなかった。
 『元始、女性は太陽であった』は、平塚らいてう自伝。生い立ち、女性の時代の幕開けを作った青とう時代、母性保護論争、戦後の平和運動への関わりが述べられている。

 101歳まで現役で女性解放や女性労働者の支援、平和運動の活動を続けた櫛田ふきや、絶望的な政界の中で、ただ一人私の希望の星であった市川房枝らに比べると、雷鳥は親しみが少ない人ではあるけれど、女性が人間として尊厳をもち、自分らしく生きていくための道を切り開いた人として、雷鳥への敬愛は持ち続けている。

 雷鳥はまさしく、「真正の人」であった。

 雷鳥は「青とう」創刊号に高らかに、こう歌い上げた。
 『元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。(中略)熱誠!熱誠!私どもは只これによるのだ』と。

 東京の夜明け。団地の屋根に四角く切り取られた空の上にも太陽がのぼる。

 元始の太陽に比せられた女性として、今日も「おひさまかあちゃん」で行くぞ!と、毎朝思うけれど、お昼頃にはペシャンコ意志消沈、夕方になれば泥のように疲れて、月を眺める元気もなし。
 ほうら、しっかりしいや、熱誠!熱誠!明日はあしたの日がのぼる、とかけ声かけつつ、夕飯作る。チン!電子の熱誠!私どもは、ただ、これによるのだ!!
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20141214
 私の好きな女性作家のひとりである森まゆみさんが、「『青鞜』の冒険: 女が集まって雑誌をつくるということ」の作によって、紫式部文学賞を受賞しました。
 私は、2013年発行のこの作より先に、2014年発行の『女のきっぷ』を買いました。公演会で著者サインをもらいたいがための購入でしたが、受賞記念に、青鞜も買いたいと思います。)

 女達の力で「山うごく」かもと思わせたおたかさんも亡くなった今年、今日の一票は、はたして何かを動かせるのか、、、、、。今回も、せめてもの批判票になれば、との思い出の投票になりました。
コメント (8)
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