20141211
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(16)初恋の人の本
初恋の人の本
at 2003 10/22 09:07 編集
10/21の項に書いたように、父は南の島の生活をおとぎ話のように語って聞かせた。しかし、戦争の苦しみについて子供に決して話さなかった。人間不信になるほど極限のつらい体験をした父。話すこと自体が苦しみでできなかったのだろう。
五木寛之は、敗戦を外地でむかえた。ロシア兵に母を殺されたときのことを語れるようになったのは、つい最近だという。50年もの間、思い出そうとすると、苦しくてつらくて、振り返ることができなかった。
高齢者の中に、戦時中の苦しみを抱えたままの方もいるかもしれない。そんな心の中にしまった思い出を、聞き取りすくい取り、つらい思い出も共有できればいいのだけれど。
日本国内だけでなく、戦争の苦しみを味わったのは、アジアの多くの民も同じ。留学生から「私の家族に、日本兵に殺された人がいる」という話を聞くこともある。「私の町には、死んだ日本人兵士を町の人が埋葬した共同墓地がある。だれもお参りにこないけれど、町の人は、大切に墓を掃除している」という話を聞かせてくれた留学生もいる。
日本兵として塗炭の苦しみを味わったことは同じなのに、戦争が終わってみれば、「外国籍」の人として、何の国家補償も受けられず、つらい戦後を過ごした人もいる。
戦争は絶対にイヤ。アフガニスタンでも、イラクでも、よりいっそうつらい思いをしているのは一般庶民だという。
コスタリカと共に「戦争放棄憲法」を世界中に広めたい。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.29
(は)浜崎紘一『俺は日本兵』
1977年以前に読んだ本を思い出しながらの昔話、というコンセプトである「今日の一冊」だが、台湾国籍の元日本兵・簡茂松を描いた『俺は日本兵』は2000年発行。でも、例外として登場。浜崎さんは、私の初恋の人だからである。
初恋と言っても、おきまりの片思い。
高校を卒業して地方公務員として働いていた私は18歳。浜崎さんは28歳。新進の新聞記者だった。カッコよかった。あこがれた。
彼にお茶をいれるときは、特別心をこめた。誕生日は松の内。おしんこに味の素をかけるのがきらい。住んでいるアパートは「太陽荘」そんな情報を知るだけで、うれしくてたまらない乙女でした。
むろん、浜崎さんは、そんなお茶くみ事務員がそこにいることさえ気づかずに、さっそうと飛び回っていた。後に、ロシア語学科卒を生かしてモスクワ支局長、外信部長と進んでいった。
その後、テレビ深夜ニュース「明日の朝刊」のキャスターをしている浜崎さんを見た。すてきなすてきなシルバーグレイの髭と髪。かっこよかった。あこがれた。安心した。
初恋の人が年をとったら見る影もなくなっていた、という話をよく聞くけれど、私の初恋片思いの人、浜崎紘一さんは、現在、山梨にある大学でジャーナリズムを教えている、ロマンスグレイのダンディな教授です。
~~~~~~~~~~~
20141207
浜崎紘一さん、山梨英和大学の教授職をリタイアされたのちも、マスメディア論などの授業を担当していらっしゃる。すでに後期高齢者に入っているけれど、ネットの写真で見る限りでは、ロマンスグレーから白銀のおぐしへの変化はあったけれど、相変わらずすてきです。よかった。
人生の出会い、ほんとうに不思議です。浜崎さんは45年も昔に、ご自分が「初恋片思いの対象」にされていることなど全く知らず、現在こうして「片思いでも、初恋の相手が浜崎さんでよかった」と、思っている老女がこの世の片隅に生きていることも全く知らない。
それでも、私にとっては浜崎さんとの出会いがなければ、人生ちがったものだったのかもしれないなあと、思うのです。
女子校クラスメートと同じように、中学校教師として平穏な人生をおくり、今頃はまあまあな年金でそこそこの暮らしを続けていて、今のようにワーキングプア非常勤講師としてかつかつの生活をすることはなかったかもしれません。
でも、娘が2歳の時、自宅近くの大学に「日本語学科ができた」と知ったとき、そこがあこがれの浜崎さんの出身校であったから、35歳にして「よし、大学再受験しよう」と、入学試験にチャレンジすることを決意しました。
夫は、18歳の現役受験生と同じ試験を受けて合格するとは思っていなかったから、「受験したかったらすればいいし、入学したかったらすればいい」と言いましたので、ママさん学生になりました。
学科は違いましたが、浜崎さんの後輩になれて、うれしかったです。
日本語学を教える教師になったのは、「入学したかったらすればいい」と言った夫とともに、浜崎さんのおかげかもしれません。
<つづく>
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(16)初恋の人の本
初恋の人の本
at 2003 10/22 09:07 編集
10/21の項に書いたように、父は南の島の生活をおとぎ話のように語って聞かせた。しかし、戦争の苦しみについて子供に決して話さなかった。人間不信になるほど極限のつらい体験をした父。話すこと自体が苦しみでできなかったのだろう。
五木寛之は、敗戦を外地でむかえた。ロシア兵に母を殺されたときのことを語れるようになったのは、つい最近だという。50年もの間、思い出そうとすると、苦しくてつらくて、振り返ることができなかった。
高齢者の中に、戦時中の苦しみを抱えたままの方もいるかもしれない。そんな心の中にしまった思い出を、聞き取りすくい取り、つらい思い出も共有できればいいのだけれど。
日本国内だけでなく、戦争の苦しみを味わったのは、アジアの多くの民も同じ。留学生から「私の家族に、日本兵に殺された人がいる」という話を聞くこともある。「私の町には、死んだ日本人兵士を町の人が埋葬した共同墓地がある。だれもお参りにこないけれど、町の人は、大切に墓を掃除している」という話を聞かせてくれた留学生もいる。
日本兵として塗炭の苦しみを味わったことは同じなのに、戦争が終わってみれば、「外国籍」の人として、何の国家補償も受けられず、つらい戦後を過ごした人もいる。
戦争は絶対にイヤ。アフガニスタンでも、イラクでも、よりいっそうつらい思いをしているのは一般庶民だという。
コスタリカと共に「戦争放棄憲法」を世界中に広めたい。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.29
(は)浜崎紘一『俺は日本兵』
1977年以前に読んだ本を思い出しながらの昔話、というコンセプトである「今日の一冊」だが、台湾国籍の元日本兵・簡茂松を描いた『俺は日本兵』は2000年発行。でも、例外として登場。浜崎さんは、私の初恋の人だからである。
初恋と言っても、おきまりの片思い。
高校を卒業して地方公務員として働いていた私は18歳。浜崎さんは28歳。新進の新聞記者だった。カッコよかった。あこがれた。
彼にお茶をいれるときは、特別心をこめた。誕生日は松の内。おしんこに味の素をかけるのがきらい。住んでいるアパートは「太陽荘」そんな情報を知るだけで、うれしくてたまらない乙女でした。
むろん、浜崎さんは、そんなお茶くみ事務員がそこにいることさえ気づかずに、さっそうと飛び回っていた。後に、ロシア語学科卒を生かしてモスクワ支局長、外信部長と進んでいった。
その後、テレビ深夜ニュース「明日の朝刊」のキャスターをしている浜崎さんを見た。すてきなすてきなシルバーグレイの髭と髪。かっこよかった。あこがれた。安心した。
初恋の人が年をとったら見る影もなくなっていた、という話をよく聞くけれど、私の初恋片思いの人、浜崎紘一さんは、現在、山梨にある大学でジャーナリズムを教えている、ロマンスグレイのダンディな教授です。
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20141207
浜崎紘一さん、山梨英和大学の教授職をリタイアされたのちも、マスメディア論などの授業を担当していらっしゃる。すでに後期高齢者に入っているけれど、ネットの写真で見る限りでは、ロマンスグレーから白銀のおぐしへの変化はあったけれど、相変わらずすてきです。よかった。
人生の出会い、ほんとうに不思議です。浜崎さんは45年も昔に、ご自分が「初恋片思いの対象」にされていることなど全く知らず、現在こうして「片思いでも、初恋の相手が浜崎さんでよかった」と、思っている老女がこの世の片隅に生きていることも全く知らない。
それでも、私にとっては浜崎さんとの出会いがなければ、人生ちがったものだったのかもしれないなあと、思うのです。
女子校クラスメートと同じように、中学校教師として平穏な人生をおくり、今頃はまあまあな年金でそこそこの暮らしを続けていて、今のようにワーキングプア非常勤講師としてかつかつの生活をすることはなかったかもしれません。
でも、娘が2歳の時、自宅近くの大学に「日本語学科ができた」と知ったとき、そこがあこがれの浜崎さんの出身校であったから、35歳にして「よし、大学再受験しよう」と、入学試験にチャレンジすることを決意しました。
夫は、18歳の現役受験生と同じ試験を受けて合格するとは思っていなかったから、「受験したかったらすればいいし、入学したかったらすればいい」と言いましたので、ママさん学生になりました。
学科は違いましたが、浜崎さんの後輩になれて、うれしかったです。
日本語学を教える教師になったのは、「入学したかったらすればいい」と言った夫とともに、浜崎さんのおかげかもしれません。
<つづく>