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ぽかぽか春庭「訂正版レストラン・ロアラブッシュ旧千葉常五郎邸」

2016-03-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160331
ぽかぽか春庭アート散歩訂正版>レストラン・ロアラブッシュ旧千葉常五郎邸

 2014年1月28日の記事「旧千葉常五郎邸-ミュージアム1999ロアラブッシュレストラン」に対して、2016年1月23日にコメントをいただきました。
 春庭はコメント欄閲覧と返信記入は、基本的に当日(最新記事)のみ行っております。古い記事にコメント書き込みがあったとしても、さかのぼってコメントを確認することがありません.古い記事に対するコメントであっても、当日(最新)の記事に書き込みをお願いします。今回は必要あってコメント管理ページを見ているうち、2年前の記事に対してコメントがあったことに気づきました。

 コメントは↓に記録した千葉弘氏からのものです。春庭が書いた千葉常五郎に関する文章への異議申し立てです。異議の第1点は、千葉家は、千葉常胤を先祖に持つ家柄であること。2点目は、鍋島家との縁組みは、佐賀鍋島家と千葉家の縁によるものであること。

 春庭は、レストランロアラブッシュの結婚式場パンフレットに
「このレストランは、資産家の男爵家に、公爵家令嬢が嫁ぐさいに建てられた邸宅である」
と書かれている文面について、
(1)邸宅の持ち主であった千葉家は男爵家ではなかった。
(2)千葉常五郎と結婚した鍋島京子は、侯爵の鍋島家出身ではなく、傍系の子爵家出身であること。

 以上2点について、「このパンフレットの記事は、正確ではない。」と記述しました。
 1点目。千葉弘氏は、コメントのなかで、「千葉家は、日露戦争時に資金調達の功があったゆえ、伊藤博文から子爵授爵のすすめがあったが、断った」と述べておられます。すなわち、千葉常五郎が「男爵であった」という点については、自ら春庭の記述は正しいと認めておいでです。
 2点目については、千葉弘氏は、なんのコメントも残していらっしゃいません。この点についても、春庭が訂正しなければならないことはないと考えます。

 千葉常五郎は、戦後、ゴルフボール製作をはじめて、成功をおさめたという起業家です。
 常五郎の父親の千葉直五郎(1888-1970)は、明治の実業家。池貝鉄工所監査役などをつとめました。直五郎の兄の千葉松兵衛(ちばまつべい)は、江戸時代から代々続いた煙草屋を大きく発展させて日本三大煙草王と呼ばれるような大企業にした上で、煙草業が官営化される際に大金で売り抜け大資産家となった人です。


 以上の記述にあやまちがあったら、訂正いたします。春庭は、三菱財閥は幕末にのし上がった成金と思っていましたし、千葉松兵衛がおのれの才覚によって明治期とくに日露戦争時に資産を大きくしたことは、実業家として評価できることだと思っています。

 しかし、千葉弘氏は「成金」ということばに不快感を示され、千葉常五郎と鍋島京子の結婚を「成金資産家と子爵家の結びつき」と書いたことにもご不満で、千葉家はもともとの家格も高く、佐賀鍋島家とのご縁からの結婚であった、と言っておられますので、「成金」という表現を含んでいる文章を削除いたします。人を不愉快にさせることは本意ではありませんし、建物の評価に関わらないと思いますので。

 私が言いたかったのは、男爵家ではなかったのに「元男爵家の邸宅」と書き、子爵家令嬢を「公爵家令嬢」と書いている結婚式場宣伝パンフレットの表現は正確ではない、ということでした。この2点についての訂正はいたしません。「元男爵家」ではなかった、ということは、千葉弘氏もお認めですから。

 春庭は誤字誤変換も多く、文字の訂正は気づいたときに行っていますが、基本的に書き上げた記事を改編することはしていません。今回、たぶん初めて、UPしてある記事の訂正版を出しました。
 念のために、寄せられたコメントを記録しておきます。
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Unknown (千葉弘、常五郎の弟でございます)2016-01-23 22:39:08箔がつくとか、止めてください。秀吉の小田原征伐、北条方について敗戦して武家商人として織田有楽と共に江戸に移りました。先祖は千葉常胤であり石橋山の戦いに敗れた頼朝を助け、八幡太郎義家を奉る鎌倉に幕府開府をすすめた恩人であります。一番の先祖は桓武天皇皇子高見王陸奥守であり、現在千葉県庁所在地千葉猪鼻城主であり千葉の名の由来は県庁裏庭に羽衣の松があり千羽鶴行事も千葉姓の由来も伝承されております。そして鍋島氏との縁組みは九州佐賀天山城に九州千葉氏が居住しそれより鍋島氏が出てくる。その歴史的な縁である。

Unknown (千葉弘、常五郎の弟でございます)2016-01-23 23:15:51成金とおっしゃってますが、まず男爵問題は祖父千葉松兵衛が大磯別荘を持ち、その近くに伊藤博文が居住し深夜一人で来宅され近くロシアとの戦争に備えなければならないが、その資金がない、そこで大きな利益をあげている煙草事業を専売にしてくれないかと、当時の業界理事長松兵衛氏に打ち明けた。それというのも金を出す欧米が日本の国家保証では金が出せない。煙草事業が担保ならば金を出せるとの説明を受けた。そこで明治の人間だから今までの反対を一転、専売に応じた。そこであの有名な日本海海戦の勝因になる英国ア―ムストロング砲を備えた戦艦八隻建造が中断されずにすんだ。しかもロシアや西欧との関係もあり、極秘にすすめられた日英同盟の影の出来事である。このことにより伊藤博文より子爵の内示があったが、お断りし、代わりに大成建設ホテル大倉大倉喜八郎氏が授爵し男爵になった事は狭い世界では著名であります。

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 立派なご先祖様をお持ちのことを述べておられて、家系に誇りを持っていること、同慶の至りです。
 しかしながら、春庭は、千葉家うんぬんについて書いたのではなく、レストラン結婚式場のパンフレットに誤情報が記載され、ネットでそれが拡散している状態について、注意を喚起したのです。
 いずれにせよ、千葉弘氏におかれましては、春庭の記述にご不快の念をもたれたこと、お詫び申しあげます。
 春庭は、明治以後に資産を大きくした家を「成金」と表現し、三菱も岩崎弥太郎が幕末に才覚を働かせて成金になったと思っております。千葉家について同様に、明治期とくに日露戦争前後に資産を大きくした資産家であるとの認識で「成金」と表現したのですが、この表現につき、千葉弘さまに不愉快であったこと、もうしわけありません。

 「歩」の成金はいつから「金」になるか。春庭の考え方では、自家の資産を公共福祉、学問文化のために差し出したときと思っております。明治期の成金の多くは、景気の変動によって資産を失った家もあります。しかし、自家の財産をつかって、教育文化、社会福祉に多くの貢献をした家もあります。たとえば、渋澤栄一は、社会福祉に晩年の力をそそぎ、渋澤家は、孫の澁澤敬三が民俗学研究のために財産を差し出したなど、さまざまな学術芸術支援を行っています。
 そのとき、成金は金になるのだと春庭は考えております。千葉家もさまざまな社会福祉のために力をお尽くしのことと存じます。(詳細、存じませんが)どうぞ胸を張って「我が家は金」とおっしゃってくださいませ。

 ちなみに、千葉家の代わりに男爵を受けたのだとおっしゃる大倉喜八郎は、1917(大正6)年に邸宅内に日本初の私立美術館「大倉集古館」を開設しました。今、私も大倉集古館の美術を楽しませていただいておりますので、大倉喜八郎も成金から本物の金になったと思います。

 つけたし。伊藤博文より「子爵授爵の内示があった」との千葉弘氏のコメントについて。
 経済上の功により授爵するばあい、いきなり子爵ということはありえません。男爵を授けられ、さらに功績を積んだ場合に子爵へと進みます。経済上の功績で男爵から上昇して子爵を与えられたのは、渋沢栄一などごく限られた経済人のみでした。

 伊藤博文は人に頼み事をするときに「あんたに爵位をもらってやるよ」というたぐいの口約束乱発も臆さない人でしたが、正式の授爵内示であったなら、当時の宮内省だか内務省だかの栄典を扱う部署に記録が残されているはずですから、探し出して、家宝になさるとよいと思います。

 今後とも、できる限り正確な情報を記録していくよう努めつつ、必要あれば訂正していきます。辞書百科事典のたぐいと異なり、記述も校正もひとりでやっているサイトなので、ときとして誤記誤変換がございます。ご指摘いただければ幸いです。

 以下、訂正後の旧千葉常五郎邸-ミュージアム1999ロアラブッシュ(2014/01/28)の記事です。
 写真付きをごらんになるかたは、こちらへ
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/bdd298c6bdfde1578ef6b5212e1ed30a#comment-list
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2014/01/28
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(9)旧千葉常五郎邸-ミュージアム1999ロアラブッシュ

 東京大空襲に焼け残った明治~昭和前期の近代建築。保存にはいろいろな苦労がつきものですが、大きく3つの保存のありかたが考えられます。
 ひとつは、テーマパーク型。古い建物を解体したうえで、明治村や江戸東京たてもの園、府中郷土の森博物館などの、建築を集めた博物館に復元移築する方法。
 もうひとつは、元の場所にそのまま保存し、博物館、美術館などに改築して転用保存する方法。最後に、古い家にそのまま住み続ける方法。

 三番目の方法には、持ち主のよほどの覚悟が必要です。文化財指定を受けると、改築などにさまざまな制約があり、居住者にとってはあまり快適な住まいではなくなるし、公開して見学者を迎え入れるのも、なかなかたいへんなことです。古い建物の維持管理には潤沢な資金も必要になります。

 ヨーロッパなどでは、古い城館に手を入れて、ホテルやレストランとして使用する例があります。日本の近代洋風建築のなかにも、個人住宅をそのまま美術館に改装した高崎市美術館(旧井上房一郎邸)や、原美術館(旧原邦造邸)」などもあります。渋谷区渋谷にある結婚式場兼レストランのミュージアム1999ロアラブッシュも、現役で営業している近代建築のひとつです。

レストラン・ロアラブッシュ、エントランス


 多くのサイトでこの洋館レストランを取り上げていますが、レストランのパンフレットをそのまま引用しているところが多く、きちんとした検証しているところが少ないように思います。
 私もさいしょにレストランの案内を見たときには、資産家の息子と公爵令嬢が結婚する際に建てられた家、という説明を鵜呑みにしましたが、レストランまで出かけてパンフレットをもらったら、「旧男爵家の建てた邸宅」と書いてあったので、あれ、おかしいな、と気づきました。

 結婚式場の案内パンフレットには「その昔 旧男爵家が子息の婚姻の際に贅を尽くして築いたもの」と書かれています。しかし、この家の持ち主が男爵であったというのは、誤りです。
 レストランの案内パンフレットのほうには「この洋館はもともと、ある資産家が公爵令嬢と結婚する息子への祝いに建てた邸宅」と書かれています。こちらのほうが、史実に近いですが、それでも「話を盛っている」。公爵ではないです。

 この家に住んだ新婚の夫婦は、夫、千葉常五郎(1911(明治44)-1998(平成10))。妻、鍋島京子(1913~没年不明、生きているなら百歳)
 鍋島京子は、子爵・鍋島直庸(1879-1962)の娘です。
 京子の父鍋島直庸は、父、子爵鍋島直虎(1879-1962)母、松平清子(伯爵松平茂昭)の子息。

 鍋島京子が、公爵令嬢と書かれているのは、佐賀藩の殿様であった侯爵鍋島直大と混同している上、鍋島直大も公爵ではなく、侯爵です。また、鍋島直庸を佐賀藩主と書いてあるのも誤り。佐賀藩主は鍋島直大で、鍋島直庸は、肥前小城藩7万石の殿様でした。

 千葉常五郎を「旧男爵家」としているレストラン側の説明ですが、誤りです。千葉家は、資産家ではあったにちがいないけれど、男爵ではありません。この豪華な洋館が建てられたおり、近隣の人たちの間に「華族様のお屋敷か」「男爵家の邸宅だそうだ」という噂がたったという伝説が、もっともらしく伝えられたもので、日本の華族は公侯伯子男、すべて家名がわかっています。1869(明治2)年の最初の427家の華族から1947年に華族制度が廃止され1011家が爵位廃止されるまでの、すべての家の記録があるからです。

 鍋島京子と結婚した千葉常五郎は、千葉直五郎の息子。常五郎は、米国アーマスト大学卒業後、1933(昭和8)年に帰国して、鍋島京子と結婚。渋谷の家は、大正末年に起工し、昭和7年に竣工したということなので、まさに、新帰朝の息子の結婚に合わせて建てられたのだと思います。アーマスト大学は、新島襄が卒業した大学です。千葉常五郎が卒業したのが確かかどうかは、卒業生名簿を当たればいいのですが、確認していません。

入り口反対側から


 千葉常五郎は、戦後、ゴルフボール製作をはじめて、成功をおさめたという起業家です。
 常五郎の父親の千葉直五郎(1888-1970)は、明治の実業家。池貝鉄工所監査役などをつとめました。直五郎の兄の千葉松兵衛(ちばまつべい)は、江戸時代から代々続いた煙草屋を大きく発展させて日本三大煙草王と呼ばれるような大企業にした上で、煙草業が官営化される際に大金で売り抜け大資産家となった人です。

 レストランは、1981年から会員制クラブとして営業をはじめたと、レストランのパンフレットに書いてあります。当主の千葉常五郎の没年が1998年とすると、その翌年には一般のレストランに改装したのだろうと思います。ミュージアム1999というネーミングは、千葉常五郎の没年の翌年に改装開店したことを示唆しています。これも、確認した情報ではありませんけれど。春庭が追跡できたところは、以上です。

 つまるところ、レストランのパンフレットに書かれていることの2点は、誤情報です。「この館の当主であった千葉家は男爵家ではない」「千葉常五郎夫人の京子は公爵家令嬢ではなく、子爵家令嬢」というふたつの点で誤った情報を掲載し、多くの人がそのまま引用している、ということです。誤情報がネットで拡散していくのがよくわかります。

 ほんとうを言うと、レストランの持ち主が、元男爵だろうと公爵だろうとどっちでもいいようなもんです。爵位なんぞをありがたがったりしない、誰もが平等な世の中を望んできたのですから。ただ、こういうレストランパンフレットなどに「爵位をありがたがる」ような宣伝文句が書いてあると、へそ曲がりな性分がついつい鎌首もたげる。(爵位なんぞとは無縁の庶民のひがみっていうと、そのとおりかもしれないですけれど)

 1959年の皇太子妃(現・皇后)お輿入れの際に、ある元皇族は、「爵位もない平民から皇室に入るなんて世も末だ」と、日記に憤懣やるかたなしと記述しました。
 今でも、まだまだ爵位という「人に等級をつけ、身分の上下を尊ぶ人々」はいるんだなあと感じたことでした。
 「公爵家令嬢が嫁入りする際に建てられた男爵邸宅」というと、なんだか立派そうに思える、という庶民感覚を宣伝に利用した、と言えばそれまでです。一種のファンタジーですね。

 ほんとうは、2月15日にここでランチしようと思ったのですが、この日は、あいにくと結婚式が入っているので、ランチ営業はなしという案内嬢の説明でした。残念。またの機会に。

入り口まえのライオンレリーフの口から水が流れていました。
 

入り口の中側の階段

入り口のホール奥

 建物としては、爵位があろうとなかろうと、とてもすてきな邸宅です。
 設計・黒川仁三、施工・竹中工務店という点、まだ確かめていません。

 黒川仁三が黒川紀章の父親だというのも、ロアラブッシュ紹介のサイトにこぞって書かれていることなのですが、黒川紀章の父親は、同じ建築家でも、黒川巳喜(1905(明治33)-1994(平成6)と思うので、このへんもきちんと調べてみなければなりません。いずれにせよ、レストランの宣伝パンフレットを鵜呑みにしてはいけませんね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<おわり>
コメント
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