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ミンガラ春庭「ヤンゴン大学キャンパスツアー・女子寮など」

2016-03-30 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160330
ミンガラ春庭ミャンマーだより>ヤンゴン大学キャンパスツアー(5)女子寮など

 ヤンゴン大学はミャンマーで最も古い大学です。英領時代1878年に、イギリスによってラングーン大学として設立されました。日本では明治10年、西南内戦の時代であり、まだ大学も整備されていませんでした。

 その後、1920年にアメリカのバプティスト派教会設立のカレッジと合併しました。(バプティスト教会については、前回の記事をごらんください)
 英領下では、オックスフォード大学とケンブリッジ大学をモデルとして運営され、この二つの大学のように、ひとつひとつの学部が独立したカレッジとして運営されていました。

 1930年代40年代の学生は、植民地からの独立運動をはじめ、のちの将軍アウンサン、元国連の事務総長ウ・タン(日本の表記ではウ・タント)などが活躍しました。
 1950年代60年代は、アジア諸国の中でももっとも高度な教育を与える教育機関として、アジア全域から学生を集めましたが、軍政時代にしだいに閉鎖的になり大学の教育力も落ちました。

 1962年以降、大学自治が押さえられ、中央政府機関の制御下に直接置かれました。大学が自分自身の教育についてなにひとつ決められない、ということになった影響は大きかったと言わざるをえません。軍政主導になって以後は、軍の意向がなければ、みずからは何も決められない。大学が自治権を失い、独裁政権の出先機関になってしまうと、どれほど教育力がなくなってしまうか、という見本のような大学史です。教育力のある学者よりも、軍に忠実な人が教育者として選ばれるというようなことでは、教育以前の状態になってしまうのは当然です。

 1990年代になると、ヤンゴン大学が民主化運動の拠点となったため、軍政当局は大学学部を閉鎖しました。25年間も、学部卒業生が出ない状態がつづきました。(大学院のみ存置)。前述のとおり、学部再会は2014年。
 現在、ヤンゴン大学の学部卒業生は、50代60代になっており、30代40代の卒業生はいません。閉鎖中は、ヤンゴン市の高校生であっても、大学に行きたければ、地方大学(マンダレー大学など)にふりわけられたのです。
 ヤンゴン大学、現在は1年生2年生3年生が在籍し、来年の9月には25年ぶりに卒業生が出ます。国がこれから順調に発展するために、若い世代の活躍に期待しましょう。

 大学内には、19世紀末から20世紀初頭に建設された築100年以上の建物がたくさん残されているのですが、管理状態がたいへんに悪く、老朽化のままに放置されています。貴重な建物群であるのに、惜しいなあと思います。補修工事なども含めて、軍政管理下におかれていたため、軍トップの「鶴の一声」がかかるまでは、壊れたままの諸設備も、水漏れの水道管も、(視察官の目に触れないような所は)そのままにされてきたのです。

 大学内では町中よりゴミが少ないですが、それでもそこここにゴミの山。


 大学内をきれいにしよう、という意識はあります。


 ちなみにヤンゴンでは、自宅の屋根の雨漏りを修理するさえ許可制で、地主の権利が強く、かってに修理することができないそうです。これまで外国人は、家は買えても土地が買えなかったので、家を買った人が修理しようとすると、地主の許可が必要なのです。マンションなどだと、他の居住者ひとりひとりのサインが必要で、もし、勝手に修理をはじめて管轄の下っ端役人に見つかったりすると、見逃し賃の袖の下が法外になるので、時間がかかっても許可をもとめなければならない、許可を早めてもらうには、やはり袖の下が必要、との自宅マンション所有者談。新政権は汚職追放をかかげていますが、はびこった袖の下主義が解消されるまでの道は長い。余談おわり。

 2015年3月の視察のおりに大学内をひととおり案内してもらったのですが、下痢でつらい身体の上に、たったと早足で歩く案内のK先生についていくのがやっとで、どこがどこやらわからないまま、大学を一周し、ものすごくつらかった思い出しか残りませんでした。

 2015年8月に赴任してからは、仕事ひとすじで、大学内を散歩する時間もなくすごしてきました。大学内を歩く時間がなかったということもあるけれど、自分の方向音痴ぶりを考えると、ひとりで歩いて元の事務室に戻れなくなったときに、他人を巻き込んで一騒動しなければならないであろうことが、おっくうに思えたのです。
 メインキャンパス内には、教授用の公舎(コロニアル風のでかい家です)なども点在し、かなり敷地が広いです。
 東京三鷹のICU国際基督教大学の敷地内にも外国人教授たちの公舎が建っていました。敷地内に教授宿舎があるのは、英米の大学では標準仕様なのかしら。

 余裕なく仕事に追われてきたHALセンセは、大学西門から入り、ミャンマー学(ビルマ文学・ビルマ語学など)校舎のタングー校舎に入るまでの道筋の往復のみ。あとはタクシーをつかまえるために大学食堂のわきを通って正門に向かう道筋のほか、大学内を知りませんでした。

西門通用口から入ると、目の前は人類学校舎


 3月18日に、日本から来ている留学生が、ヤンゴン訪問の親戚を案内して大学内をまわるというので、ボスに「すみません、1時間ほど事務室を留守にします」と断って、ふたりが行く先についていきました。授業が終了して事務仕事だけになったので、時間を割合自由につかえるようになったおかげです。

 大学通用廊下。欧風の作りになっていると感じる部分。



野犬も校舎内に多いので、当然の顔をして廊下も横行。

 タングー棟北側の女子寮


 日本人留学生入居中の女子寮インヤー寮。外見は立派な欧風建築ですが、中は当然冷房なしだし、共同洗濯室の洗濯機は二槽式だし、諸設備は最悪との留学生談。生まれたときには全自動があったので、はじめて二層式洗濯機を使った、という21歳。小5の家庭科の時間には、洗面器と石けんを持参の上、「手洗いの諸注意」なんぞを教わった我らの世代とは大違いです。



 大学内のコピー屋さんやアイスなど食べ物を売っている売店の場所もはじめて行きました。日本の大学生協とは大違いの、雑多な小店がごちゃごちゃ並んでいるところですが、試験期間中なのでコピー屋さん大繁盛。
 ちなみに、日本で2800円で売っている「みんなの日本語」を、そっくりぱくってコピーして、製本してもらって3000チャット300円。著作権法がないので、パクリ放題です。ボスは、ものすごい時間と労力をかけた「ビルマ語辞典」がそっくりパクリコピー本として安値で売られていて、しかも著作者は別人のミャンマー人名になっていた、と、言っていました。辞書編纂の苦労を知るものとしては、こういうのは犯罪だと思いますけど、なにせ著作権も肖像権も、ない国なので。私の顔写真、学科長はなんのお断りもなしにfacebookにUPしています。

 インヤー寮前の木。幹がぐるりと輪を描いて停滞部分はありますが、ちゃんと木として枝を広げています。
 ヤンゴン大学、25年間の学部停滞はあったけれど、きっとこれから若い世代がまっすぐに将来への道をのばしていくのではないかと思います。 



<おわり>
コメント (2)
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