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春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「東御苑&東京近代美術館工芸館の花見」

2014-04-09 00:00:01 | エッセイ、コラム


2014/04/09
ぽかぽか春庭@アート散歩>桜めぐり花のアート(1)東御苑&東京近代美術館工芸館の花見

 4月1日、皇居東御苑周辺を散歩。ひとり花見を楽しみました。
 大手門前からスタート。

 お濠端から大手門を見る




 まずは三の丸尚蔵館へ。
 皇室への寄贈品や宮家伝来の宝物が9600点寄贈されている展示館。東御苑や東京近代美術館を訪れたとき、たいてい三の丸尚蔵館にも立ち寄るのは、無料だから。でも館内撮影禁止なのは相変わらず。(↓の画像は宮内庁サイトより)

 今回の展示は京焼の食器。幹山伝七(1821~1890)の作品です。有栖川宮家から高松宮家に受け継がれた食器600点のうち、前期後期合わせて250点を展示しています。私が見たのは、前期展示の色鮮やかな四季草花図前期の食器です。

 膾(なます)皿


 東御苑は、平日でもさすが桜の時期、大勢の人が思い思いに花見を楽しんでいました。


 清水櫓の前に咲く桜

 桜のほかの花々も花ざかり
あせびとぼけ


 毎年色鮮やかな桃華楽堂前の桃と連翹


 東桔梗門からお堀の桜を見る


 私のいちばん好きな花は、東桔梗門を出たところにあるしだれ桜。また、近代工芸館と桜のショットも、毎年楽しみに見ている桜スポットです。

工芸館


 近代工芸館の展示は「花」。こちらは許可シールをもらえば撮影OK。(「撮影禁止」と札が出ている展示品はだめですが)。


 「上絵金彩花鳥図」七代錦光山宗兵衛(1868-1927)


 「縮緬地友禅梅訪問着」木村雨山(1891-1977)


<つづく>
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ぽかぽか春庭「やっちゃんと馬」

2014-04-08 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/04/08
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記春(6)やっちゃんと馬

 3月30日、姉の法事が終わったあと、馬術大会の審判を終えてきたというやっちゃんと会いました。やっちゃんは、県の馬術審判部長を勤めています。ボランティアコーチをしているという大学馬術部に案内してくれました。

馬術部入口の看板


 日曜日だけれど、学生たちは馬の世話をやっており、馬たちは夕食中でした。


 厩舎の隣で学生といっしょに畑を作っているというところを見せてもらいました。やっちゃんが作っているネギや学生が育てているハーブのローズマリーなどがありました。馬糞の堆肥が作物にいいそうで、学生にとっても、教育効果が高いのではないかと思いました。馬術試合で活躍した馬、その糞も作物のためには有効に使える。地球にやさしい馬術部でした。

学生が作っているハーブ畑のローズマリー


 やっちゃんはこれから泊まりで馬の世話をするという学生ふたりに「いっしょに回転寿司屋へ行こう」と、声をかけました。
 タッチパネルで注文する方式の郊外型チェーン店。私はタッチパネル式の寿司屋、はじめてでした。やっちゃんのおごりでごちそうになりました。

 学生たち、馬が大好きなので馬術部に入ったそうです。やっちゃんの悩みのタネは、活動費用。馬術で強くなるにはいい馬が必要、いい馬は高い。お金がかかるスポーツなのに大学の馬術部では、その費用のあるなしで強さも差が出る。

 厩舎から顔を出す、愛称ユキちゃん


 やっちゃんは17歳18歳のスポーツ少女のころと変わらない魅力ある人でした。
 山菜採りが趣味というやっちゃんにフキノトウをたくさんいただきました。炒め物、サラダ、おやきなどで食べとてもおいしかったです。

<おわり> 
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ぽかぽか春庭「やっちゃんと牛」

2014-04-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/04/06
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記春(5)やっちゃんと牛

 女子高時代、やっちゃんはソフトボール部のキャプテンで、私のあこがれの人でした。顔立ちは違いますが、雰囲気はソフトボール金メダリストピッチャーの上野由岐子とそっくりでした。
 当時、やっちゃんにはファンが多くて、なかなか友達になるチャンスがなかったのです。校舎の窓からソフトボールの練習見つめていました。

 ある日、やっちゃんが「牛が大好きだ。となりの家の牛を世話してるんだけど、自分の牛飼いたいから、獣医とか酪農とか牛について勉強しようと思う。でも、理系の大学受けるためには理科科目をもっと強くしなくちゃならないから、ハルちゃんが科学部に入って理系科目勉強して、わからないところを教えてくれ」と言ってきました。

 完全文化系の私にとっても、理科は苦手科目です。でも、理科をいっしょに勉強するという名目でやっちゃんと仲良しになれるチャンス。いさんで科学部に入部しました。1年生の時は、中学時代とおなじく文芸部にいましたが、2年生から科学部リケ女です。科学部は望遠鏡を覗く天文地学班と、動物の解剖なんぞに取り組む生物班、化学実験をする物理化学班に分かれていました。私は化学班。
 理科室にいても、私はただ大きな硫酸銅のガラス瓶をながめて、「ああ、なんていう青さだろう、海でもなく空でもない始源の色」なんて思いながらぼうっとしていたという文系頭だったのに、やっちゃんのためならと、必死で理科科目を勉強しました。

 やっちゃんは、ソフトボール練習の合間に理科室に来て、「化学過去問」の解き方なんぞを質問し、「そうか、そう解くのか」と、また練習に戻っていく。やっちゃんのお父さんもお兄さんも理科の先生なのに、家族に聞かないのは「こんなんが解けないのは、ただの馬鹿」と言われるからなのだって。

 やっちゃんとは理科の勉強をいっしょにする、という時間が持てて、「モルの計算」なんぞを教えたことでずいぶんと親しくなれました。今では「モルって何のことだっけ」と思っているのですが、高校科学部の2年間と大学病院検査士時代の1年半のみ、「リケ女」だった私。たぶん、やっちゃんと親しくなるために、必死でリケ女ぶっていたのだと思います。中身は完全文系でしたのに。

 やっちゃんは北海道の大学に進学して念願の酪農を学ぶことになりました。牛が大好きだったやっちゃんでしたが、馬術部に入り馬が大好きになりました。
 大学卒業後、やっちゃんが馬術クラブの職員として働いていた町に「遊びにこい」というので、大喜びで出かけたら、やっちゃんのアパートには「この人、大学の先輩。今いっしょに暮らしている」という男の人がいたので、びっくり。
 やっちゃんは、地元に帰って私立高校の理科の先生になり、この先輩と結婚して男の子に恵まれました。「自由人」だったというご主人は、49歳という若さで病気で他界されましたが、やっちゃんはご両親の助けを受けならが息子さんを育て上げ、高校に新設された馬術部の指導を続けました。

 「やっちゃんのびっくり」は、まだあって、自宅を自分で建てたことです。自己資金で建てたというのはもちろんのことですが、宅地の基礎作りからはじめて、カンナ金槌のこぎり自分で手にして、大工仕事左官仕事を自分でやって、ほんとうに「自分で」建てたということ。

 今は馬術連盟の役員をしながら、地元の大学の馬術部コーチをしています。「ボランティアだけど、学生も馬もかわいくて」というやっちゃんはすごくいきいきした顔ですてきな60代になっていました。髪も白くなり顔のしわも気にしないやっちゃん、今でも私のあこがれの人です。

 女子校時代、クラスメートがあつまって、将来の夢を語り合った日々のことを思い出します。みな、それぞれの夢はかなったでしょうか。
 やっちゃんが「私はハルちゃんが言ったことを覚えているよ」と言うには「ハルちゃんは、百歳まで生きて、世の中の変化を見届けたいと言っていた」のだそうです。わぉ、17歳のときから「ぶれてない」というか、成長していないのか。

 「ウーマンリブ」が立ち上がろうとしていたころでした。まだまだ女性の地位は低かったけれど、クラスの大半は「女性も男性と対等に働きたい」と言っていて、薬剤師、医者、教師、公務員など、自分の将来の仕事を探していました。
 やりたいことを見つけてもくとやり遂げている人、私大好きです。

 やっちゃんに言わせると、73歳で現役馬術選手を続けている法華津寛さんは、特別なエリートなのだそうです。しかし、現役ではなくても、馬術ひとすじ、後進の指導を続けているやっちゃんも、すばらしい馬術人生を歩んできたと思います。

 やっちゃんとは3月30日にまた会おうということになって、私は法事後、やっちゃんは馬術大会後に会いました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「プチクラス会のおしゃべり」

2014-04-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/04/05
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記春(4)プチクラス会のおしゃべり

 上野動物園でアイスクリームを食べながらのおしゃべり。女子校卒業以来の自分史語りや近況報告、にぎやかにおしゃべりが続きました。何を話しても、心はさっと17歳18歳だった頃にかえります。

 みなが「いちばんの思い出」というのが、クラス全員で取り組んだ予選会のだしものです。クラスが一丸となって夢中になって取り組んだ日々。私にも貴重な思い出です。予餞会(よせんかい)、今は「三年生を送る会」とか呼ぶのかな。卒業式前に、在学生が卒業を祝って行う学芸会です。クラス単位のコンクールでもあったのですが、「予餞会準備に1ヶ月も取り組む価値があるのか。私たちのやるべきことは、3年進学を前にして受験準備スタートすることだと、クラス担任も言ったじゃないか」というクラスメートもいました。しかし、1ヶ月も準備や練習を重ねたとき、50人の乙女の心に一生だいじにしたい思い出ができたのです。

 この時のクラス演目「アジア歌めぐり」の台本を書いたのは誰か、といつもクラス会で話題になるのに、だれも「私が書いた」という人がいない。クラス会に来ていない人が書いたのだろうと、みなが言っていたのだって。
 3月25日「ハルちゃんが台本書いたのか」と、やっちゃんに聞かれたので、「うん、私が全体の企画をたてて、台本を作った」と答えました。

 50人のクラスを日本、沖縄、朝鮮、中国、フィリピン、ベトナムの6つの班に分け、班ごとにそれぞれの国の民謡と踊りを練習しました。私はハッピを着て八木節を踊り、Sちゃんは沖縄安里屋ユンタ、ひさちゃんは、チマチョゴリを着てアリラン。フィリピンはバンブーダンスでした。

 やっちゃんはラストのベトナムシーンを担当。テレビのコンバットから録音した爆撃音を合図に屋台崩しをする係りでした。テレビのベトナム戦争ニュースなどで見た草葺の家を作り、家の前でアオザイ姿で踊っていると、やがて爆撃の音。やっちゃんは草葺の家を裏から揺らして崩したのです。
 戦争がピークに達していたベトナムの悲劇をアピールし、最後に全員が出てきてロウソクを手にして、平和を願う歌を歌うというだしもの、学校中が感動し、生徒人気投票で一位になりました。

 班に分けた段階で、私は影にまわり、それぞれの班の練習などは、班リーダーにまかせました。当時はそれが「民主的な」演出方法だと思っていたので。個性と自己主張がつよい女子の集まりだったクラスで、私が黒子にまわったことはだしものの成功の一員だったかもしれません。
 私が全体を統括しようとすると必ず反発する人がでたでしょうから。みんなが「私が一番」と思っているクラスでした。

 ひさちゃんは、小学校教師を定年2年前にやめて、同じ教師だったご主人とともに年金生活。
 ひさちゃん、今は民生委員をしたり、「きみこ方式絵画教室」の先生をして絵を指導しているのだそうです。母校の同窓会幹事もやっていて、退職後のほうが忙しいそう。

 ひさちゃんから届いた絵手紙2014.03.30付


 驚いたのは、私が小学生の時にすでに「地域の名物教師」だったひさちゃんのお母さんが、99歳でご健在だという話。97歳までずっと退職教師会の役員やらさまざまなボランティア活動を続けたそうで、今はいろいろな役職を下りたけれど、元気だというので、「すごいなあ、目標ができたわぁ」と、感激しました。

 私の妹は、地元でひさちゃんと顔を合わせる機会もあり、会うたびに「ももちゃんのお姉さん、今どうしてる?」と聞かれていたというので、私の近況は一番よく知っているクラスメートです。「今、どうしてる?」の返事は「相変わらず貧乏してる」なんですが。

 Sちゃんとは、高校卒業以来ほんとうに久しぶりに会ったのですが、公園口の改札に立っている顔を見合って、お互いすぐにわかりました。

 女子校時代、「ウーマンリブ」が世を賑わしてきたころでした。まだまだ女性の地位は低かったけれど、クラスの大半は「女性も男性と対等に働きたい」と言っていて、薬剤師、医者、教師、公務員など、自分の将来の仕事を探していました。

 けれど、クラスメートのなかには、あきちゃんのように「私はできるだけ学歴が高くて家柄のいい男性と出会って結婚するために大学に入るのよ」と宣言していた人もいました。私は、今でこそ「そういう選択も女性の生き方のひとつ」と思えるけれど、女子校のころはとんがっていたので、「専業主婦希望だなんて、女性解放運動の足ひっぱる存在だ」くらいに思っていました。
 専業主婦の悲哀を感じて生きた母が、つねづね「手に職をつけなさいよ。ひとりで生きていけるようにしなさい」と、諭しつつ私を育てたという影響もあったと思います。

 私の場合、家事育児を手伝うことも家計担当する人もいない家での孤軍奮闘でした。やっちゃんに、「還暦過ぎてるのにそんなに働くと、体こわすぞ」と、心配してもらいましたが、働かなくては食っていけない家なので。

 優雅な奥様のSちゃん、ご主人を早くに亡くしたけれど、お母さんが92歳でなくなるまで支えになってくれたというやっちゃん、実母同居で共働きを続けたひさちゃん。やっぱり、どう見ても私がいちばん貧乏。
 ただ、世間の評価で「クラスでいちばん貧乏でいちばんかわいそうな境遇」であるとしても、私自身がそれを自分で選んだのだから仕方がない。

 妹に「自分に合わないと思っても、中学校の国語科教諭を我慢して続けていれば、他のクラスメートと同じように平教員で3000万、校長なら5000万だかの退職金を手に入れて、還暦後の年金だってそこそこ暮らしていけるくらいにはなったでしょうに」と言われて、確かに老後の生活を考えると、そのほうがよかったかなあと思うこともあるのです。それでもやっぱり、私は自分で選んだのだ、としか言い様がない。我慢ができない性格で、嫌になったらさっさとやめたから転職13回だったのだし。

 まあ、それでも今の時代、それぞれの人がそれぞれの花を咲かせればいい、と感じています。

 3月25日上野公園の桜。
 

 クラスの中で、亡くなった人もいます。スペインまでフラメンコダンス修行に行ったナナちゃんは50代で亡くなりましたし、昨年もクラスメートの訃報がありました。
 健康にはくれぐれも気をつけていこうと話し合いました。

 動物園閉園で上野駅に戻り、ひさちゃんは「6時に新宿駅から高速バスで帰る」というので、解散。やっちゃんとは3月30日にまた会おうということになりました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「動物園プチクラス会」

2014-04-03 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/04/03
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記春(3)動物園プチクラス会

 女子高クラスメートのやっちゃんからの葉書を受け取りました。
 「このところクラス会に顔を出せないでいたひとりと会うことになって上京するから、いっしょにどうですか」という連絡です。

 ハガキには「妙義山に登ったとき、ハルちゃんが妙義の大砲岩で逆立ちしたのを今でも思い出します」と書いてあり、びっくり。女子高時代、やっちゃんといっしょに自宅から自転車で2時間かけて妙義山に到着し、ふもとに自転車を置いて頂上まで登ったことは覚えていたのですが、「大砲岩で逆立ちした」なんてこと、さっぱりと忘れていました。元気いっぱいの高校生でしたね。今ではすっかりくたびれたオバアになっていますが。

 3月25日に集まることになったのは、葉書をくれたやっちゃん、千葉に嫁に行ってから一度も会っていなかったSちゃん、ずっとクラス会の幹事を続けているひさちゃん。幹事のひさちゃんから毎年クラス会の案内をもらうのですが、私は、クラス会に1度参加しただけ。地元の温泉一泊のクラス会です。

 みなが子育てを終えてクラス会出席を楽しみにしだしたころも、子供を持つのがおそかった私は、まだ子供が小さくて参加できず、息子が中学生になったとき、はじめて参加しました。そのあと、みなは60歳で定年退職して平日に集まるようになって、平日は仕事がある私は、参加したくてもできなくなりました。

 上野公園口に集まり、公園内の精養軒でランチ。
 1787年に建てられた鐘楼「時の鐘」。前回精養軒でひとりランチしたときには、さっさと通りすぎた所ですが、みなが見ているので、私も説明書きを読んで、由緒来歴を知ることができました。

 ランチ後は、ぶらぶらと公園を散歩。24度まで気温があがった上野公園。桜も咲き始めた枝があって、ほんとうにのんびり楽しくすごせました。

 咲き始めの枝にさっそくやってきた小鳥。


 さいしょは、Sちゃんが「五重塔が見たい」と言うので五重塔見物。でも五重塔は修理中で、下側半分にはシートがかけられていました。私は動物園にはよく来るのに、五重塔をじっくり眺めたことがなかったので、次回、修理が終わったらゆっくりみたいと思います。
 重要文化財の上野東照宮唐門は、金箔修理を終えたところで、ぴかぴかでした。1651年建築の国指定重要文化財、正式名称は唐破風造り四脚門という立派な門なんですが、ぴかぴかすぎて、ちょっとありがたみが薄い気がしました。

 左甚五郎作の「昇り龍・降り龍」彫刻柱がある総金箔の唐門前で。左がひさちゃん、中がS
ちゃん、右がやっちゃん。


 東照宮の次は、動物園へ。動物見てまわりながら、閉園までおしゃべりしました。
 パンダやぞうを見て、しろくまが泳ぐようすを見て、とらが歩き回っているのをみました。

 おめでたは残念でしたが、シンシンは元気でした。


 水中で遊びまわっていたしろくま。光の屈折で水面に出ていた頭が写りませんでした。


 動物園の園内でソフトクリームを食べながら、クラスメートの近況などを聞きました。
 クラスメート、ほとんどが60歳で教員や公務員を退職していました。女子高三年六組50人のうちクラスの半数が教師か公務員になった、というのも、当時女性が男性と同じ仕事をして同じ賃金がもらえるのは、教師か公務員だけだったからです。

 やっちゃんは私立高校の理科教師になり、60歳で定年。ひさちゃんは小学校の先生になり、健康問題から停年の2年前に早期退職。
 教師は嫌いだ、なりたくない、と言っていた私も、中学校教師や大学講師になって、まだ働いている

 絶対に医者になると言っていたとみちゃんは、今では同業のご主人と大きな病院経営しているというし、クラス一のピアニストだったかずこさんは、音楽大学のピアノ教授と結婚して、いったんは家庭に入ったけれど、お姑さんに勧められて高校ピアノ教師の仕事を再開したのだそうです。

 ちょうど、管理職に女性を登用しだした時期だったので、クラスメートの多くが校長や教頭、教育委員会管理職になりました。教員定年退職組の元校長元教頭たちは、それぞれいろいろな役職について活躍しているそうです。
 近況報告やら女子校時代の思い出話やら、おしゃべりは続きました。

  <つづく>
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ぽかぽか春庭「桜吹雪13回忌」

2014-04-02 00:00:01 | エッセイ、コラム


2014/4/02
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記春(2)桜吹雪13回忌

 4月10日は姉の命日です。13回忌法事は3月30日に故郷の菩提寺で行いました。
 短かった姉の一生でしたが、なくなるとき「思いのままに生きてきて、私は幸せだった」と言って旅立ったので、残されたものたちも心静かに見送ることができました。今おもえば、いつも周囲の人達の幸せを考えて生きてきた姉の最後の優しさから出たことばだったろうと思うのです。
 ホスピスの庭に咲く桜を、いっしょに眺めたのが最後の思い出です。桜吹雪忌13回目。



 姉は54歳で早死してしまいましたが、孫を4人見ることができたので、私の母が55歳でなくなったとき孫を一人も見ていなかったのに比べたら「孫をあやす幸福」は味わえました。しかし、4人の孫の成長を見届けられない悲しさ、シングルマザーとしてこの孫たちを育てていこうとするたよりない長女への心配、さまざまな不安がいっぱいあったに違いない。それでも愚痴をこぼさず旅立った姉、ほんとうに思いやりにあふれた立派な最期だったと思います。

 3月30日の姉の法事では、ふるさとのお寺でお経と説教を聞いたあと、両親と姉が眠るお墓にお参り。朝からの雨がいちばん強い時のお墓行きで、お線香に火をつけるのも一苦労でした。

 いつも天から見守っているから両親も姉も知っていることだと思うけれど、昨年、妹の孫がひとり増え、姉の孫がひとり増えたことを、私の両親にとっては、8人目のひ孫、姉には、5人目の孫ができたことを報告しました。私自身は「死んだら千の風になる」派なのですが、姉は「死んだらだれでもカルシューム」と言っていたので、カルシュームとなった骨も姉だろうと思って、墓前での報告です。

 昨年は、姉の次女が結婚5年目でようやく男の子に恵まれ、妹の次女には、上ふたり男の子だったあと待望の女の子が生まれました。
 姉の長女のところの孫4人、一番上は看護学校へ進学、末っ子は今年高校入学。姉が亡くなった時、2歳だった末っ子がもう高校生。空から見守ってきた姉も一安心でしょう。姉の長女は介護施設の職員となって4人の子供たちを育ててきました。みなよく頑張ってきたと思います。
 孫をひとりも見ないうちに死んでしまった私の母ですが、孫6人、ひ孫8人、天からまた見守ってくださいと、お祈りしました。



 近所のレストランで妹一家、姪一家といっしょに食事をしました。
 妹とはときどき電話で話すし(妹が一方的に1時間くらいしゃべりまくる)、姪たちの動向は、mixを見て知っているのですが、やはり姪のこどもたちの顔を見れば、成長ぶりもわかります。
 お墓参りや法事というのは、死んだ人のために行うのではないと思っています。亡き人が自分たちを見守っていてくれると考えて、安心のよりどころを得るため、また生き残っている者たちがこういう機会にあつまって、それぞれの家のことを先祖に報告するという形で互の動向を伝え合うためだと思っています。

 妹は、3月30日法事の前、28日と29日は、埼玉アリーナでフィギュア世界大会の男子フリー女子フリー、アイスダンスを観戦。私は今回は家でテレビ観戦でしたが、生の迫力ある試合のようすを妹のおしゃべりで味わうことができました。いつもは腰が痛くて立ったり座ったりがたいへんだからと、スタンディングオベーションをしない妹も、今回はさすがに男女金メダルの演技に痛さこらえて立ったそうです。

 姉の孫、妹の孫たちの成長もうれしいですが、ジュニア大会出場のころ、小学生の時代から見続けてきた浅田真央選手、羽生結弦選手を応援してきたので、その成長のようすを応援するのはとても楽しかったです。今回、表彰台に上るのを見た話を妹に聞くと、女子のほうだけでも妹といっしょに見ておけばよかったとちょっと後悔。真央ちゃんは現役出場は最後になると言っていたのに。お金がないもんで、チケット代を惜しんでしまいました。

 ふるさとの桜は3月30日にはようやく「開花した」というところでした。銀メダルのリプニツカヤ選手は日本の桜が見たかったとのこと。さいたまや東京で満開の桜、堪能できたでしょうか。
 鈴木明子選手、真央ちゃん現役引退のあと、若い選手がつぎつぎに花開いていくのを見ていきたいです。

 両親にとってのひ孫たち、若い時代を存分にすごして、花開いていってほしいと願いました。


 4月1日、皇居東御苑、近代美術館の周辺を歩いて、ぽかぽか陽気のなかお花見散歩をしました。


 <つづく>
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ぽかぽか春庭「桜さいて13回忌」

2014-04-01 00:00:01 | エッセイ、コラム


2014/4/01
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記春(1)桜さいて13回忌

 3月25日、上野公園の桜、ひと枝ふた枝と咲き始めていました。30日には満開になりましたが、あいにくの雨とつよい風。お花見は晴れてから。
 3月後半は、法事がふたつ。姉と舅、ともに13回忌です。

 舅が2002年の3月に亡くなって、7回忌までは姑が気力で主催しました。
 今年の13回忌。姑は、このところ足腰が弱くなって外出がたいへんになってきました。姑の希望で、自宅で形式張らずに「おじいちゃんの思い出の会」という形で、内輪だけでする、ということになりました。命日が3月25日なので、その前の土曜日か日曜日に、内輪だけでやりましょう、ということになり、22日土曜日に姑宅へ。

 舅が亡くなってから、10年余、「未亡人生活」を楽しんできた姑ですが、米寿すぎから気力が衰えてきました。ラジオ体操をしに毎朝公園へ、週に1度ずつ、詩吟、書道、童謡を歌う会、老人会とお出かけしていたのが、ひとつお休みし、ふたつ休会し、と出かけなくなりました。
 外出も、今のところ病院通いだけにしています。歯科、内科の診察や検診には娘がつきそい係をしてくれるし、週1回のデイケア体操教室のときは、門前までお迎えのバスがきてくれるので、楽しみに出かけています。

 姑は、iPS細胞の山中伸弥京都大学教授のファンで、新聞に山中先生の記事が出ると熱心に読んでいました。「この細胞で治療できれば、手術なんかしなくても内蔵の悪いところも治るんでしょ。だったら、私、あと100年くらい生きられるんじゃないかしら」と、大喜びだったのです。
 「いや、人に臨床治験できるまでには、まだまだかかるんじゃないの」なんて見通しは、言わなくていいんです。「そうだよね、早く人間にも使えるようになって、どんどん病気が治るといいね」と、「明るい未来」を話していれば、それだけで寿命も延びるというもんです。

 小保方かっぽう着さんの「紅茶くらいのストレスで細胞初期化」については、姑があまり理解しないうちにダメ出しが出てしまったので、「もっと長生きできそう」という期待値を大幅UPせずにすんで、がっかりしなくてよかったのかも。

 2月、東京にも大雪が降りました。2月の大雪のあとも、「おばあちゃんの雪中通学の話」を聞きました。雪を見るたびに「鉄の鋲を打ったかんじき履いて、1時間かけて駅まで歩き、それから1時間汽車にのって女学校へ通った」という思い出話を繰り返すのです。ユキ子という名前なので、雪の話が大好きなのかもしれません。
 私も娘もなんども聞いていますが、娘も「桃太郎の話を何度繰り返して聞いてもいいみたいに、おばあちゃんの昔話は何度聞いてもいい」と言います。

 食事は、パーティ料理ケータリング専門の店から、オードブルセットというのを取り寄せました。オードブル、サラダ、メイン料理、サンドイッチ、ピラフ、ケーキ、というセット。姑はこのセット「まあ、ケーキまで宅配してくれるのねぇ」と、気に入ったようだったので一安心。事前に「出前をとります」と、説明して承知してもらっていたのですが、「嫁がちゃんと料理もしないで出前を取ることにした」と思っているかもしれないなあ、と心配もしました。でも、掃除好きだけれど料理はあまり好きではなかった姑、デリバリーも気に入ってくれて、よかったです。

 味にうるさい娘は「テーブルに並べたとき、見た目は豪華に見えるけれど、味はイマイチだった」と評したデリバリーでしたが、姑は「ピラフがおいしかった」と、喜んでいたので、今回はこれでよしとしました。

 姑と夫は「宗教より科学、合理的思考が一番」の人で、お墓も仏壇もいらない、という考え方の人なのですが、舅が亡くなったあと、「山形の親戚の手前」、家に仏壇をおくことだけは承知しました。舅の兄弟は長寿一族で、舅の長姉は100歳を超えてまだ存命です。兄弟のうち末っ子の舅が2002年に82歳で亡くなった時、親戚中から「早死にしてしまった」と言われたものでした。

 「山形のご本家のお寺に入れるのが筋だ」と親戚のご長老方に言われても、「遠くのお寺でたまにしかお墓参りできないより、近くの便利なところに」という合理的判断の姑でしたが、今回の13回忌は、その都心のお寺にさえ歩いていくことが難しく、今回は自宅で、ということにしたのです。それでも姑が「十三回忌法事をやり遂げた」という気分になって、満足しているので、嫁としては「やれ、これで一安心」でした。

<つづく>
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