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ぽかぽか春庭「マリー・ローランサン展 in 三鷹美術ギャラリー」

2014-06-08 01:01:45 | エッセイ、コラム

展覧会のちらし「音楽(1944ころ)」 

014/06//08
ぽかぽか春庭@アート散歩>20世紀の画家たち(2)マリー・ローランサン展in三鷹美術ギャラリー

 6月5日午後、三鷹美術ギャラリーで「マリー・ローランサン展‐女の一生」展を見ました。(会期6月22日まで)

 中学校高校あたりの乙女たちに人気だったのは、シャガールと並んでマリーローランサン(Marie Laurencin, 1883 - 1956)でした。
 やわらかい色彩のふんわりした少女たちの肖像。人生に影や悲哀もあるのかもしれないなんて思っただけでちょっと不安そうな悲しそうな表情をするけれど、実際には絶望も慟哭悲哀もまだ遠い、そんな少女たちの造形に自分たちを投影させていたのでした。

 そんな時期はあっというまに通り過ぎ、今や白髪交じりのばあさんになっているのだけれど、ローランサンの乙女たちに向き合えば、あのころの自分が戻ってくるような。

 1983年に開館した「マリー・ローランサン美術館」いつか見に行きたいと思っていたのですが、蓼品高原だと行くにもたいへんだなあと思っているうちに経営が思わしくなかったのか、2011年には閉館してしまいました。個人美術館だと、運営がたいへんなのでしょうね。
 シャガールの所蔵品をもう一度見たいと思っていた青山ユニマット美術館は2006年に開館して2009年にはもう閉館してしまいました。こちらは親会社の業績悪化によっての閉鎖と思うので、社長の個人コレクションだった絵画、オークションなんぞで散逸したのかなあと思います。

 マリーローランサン美術館の作品、こうやってまとめて三鷹美術ギャラリーで見ることができてよかったです。
 油彩、版画69点が、マリーの自画像や肖像写真とともに展示されており、「女の一生」というサブタイトルどおりの、わかりやすい編年展示です。
 女流画家のさきがけとして、華やかな恋愛遍歴とともに20世紀をかけぬけた女の一生。

 パリ・モンマルトルにあった貧しい画家たちのおんぼろアトリエアパート、バトー・ラヴォワール(洗濯船)。22歳のマリーは5歳年上のアポリネールと恋におち、彼の影響のもと、アンリ・ルソー、ピカソなどの画家たちとの交流の中で、自分の絵を追及していきます。しかし、画家として独り立ちに手が届くようになると、アポりネールとは別れ、正式な結婚の相手としてはドイツ人男爵を選びます。私生児として育ったマリーには「男爵夫人」という正式な妻の座は必要なものだったのかもしれません。しかし、男爵との結婚生活はわずか6年で破綻し、離婚。

 第1次大戦後パリに戻ったあと、マリーはやわらかい色彩の画風を確立していき、マリー・ローランサンに肖像画を描いてもらいたがる上流婦人の注文が殺到しました。バレエや演劇公演の舞台衣装や装置のデザインも手がけ、晩年にはフランスの勲章も得ました。
 私生活では女性を愛する女性として生きていきます。

  ローランサンの描く女性たち、描かれたモデルの婦人たちの名がはっきりわかる肖像画であっても、けっして現実にはこんな女性はいない、と感じるようなどこかファンタジックな女性像です。贋作が作りやすそうな。

 最初期(1902-1903)の展示の中で、ポスターにも使われている21歳の自画像が印象的でした。まだ「ローランサン風」ではない、決して技法的にうまいとはいえない自画像ですが、意志の強そうなきりっとした、同時に人生の悲哀をすでに知っていそうな21歳。

21歳の自画像

 時代別の展示、次はアポリネールとすごした時代1907-1913。フォン・ヴェッチェン男爵との結婚1914-1920。一番たくさん展示数があったのは、成熟~晩年1921-1959。

扇を持つ若い女 1950ころ


モンテスパンとラヴァリエール1952ころ


 マリーの肖像写真も時代ごとに展示されていました。画家になりたいという思いを母に許してもらえないでいた21歳の自画像が、やや暗い表情をしていたのに比べて、1907年24歳のマリーは、笑みを浮かべてカメラに向かっています。アポリネールとの恋と画家をめざす生活が充実していたことを想像させます。

 恋多き女であったマリー。晩年は彼女の身の回りの世話をする家政婦であり恋人ともなったシュザンヌ・モローを愛し、1954年に正式に養女として入籍しました。
 1953年の肖像写真。マリー晩年の代表作である「3人の女性」を制作中の70歳の写真が印象的でした。

 キャンバスに向かって絵筆をとっているマリーが振り返っているのですが、カメラ目線ではなく、その目は天井を見ているのかと思うくらい、思いっきり上目づかいです。私生児として生まれて父の名を知らずに育った少女時代からの、「必ず這い上がって見せる」という闘志を最晩年までうしなわなかったのだろうなあと思うような、強い視線でした。

《三人の若い女》を描いているときの肖像写真。1953年頃70歳)


《三人の若い女》(今回は展示されていませんでした)


<つづく>
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ぽかぽか春庭「シャガール版画展 in 目黒美術館」

2014-06-07 00:00:01 | エッセイ、コラム

シャガール「ダフニスとクロエ」

2014/06/07
ぽかぽか春庭@アート散歩>20世紀の画家たち (1)シャガール版画展 in 目黒美術館

 私が絵を見るのが好きになったころ。東京の美術館に行くには遠く、絵といえば美術の先生が見せてくれる画集の絵か美術教科書に出ている絵で判断するしかありませんでした。教科書に取り上げられている画家のうち,好き嫌いが分かれる画家と,みなが「大好き」という画家がいました。絵が好きという女子中学生のみな、シャガールが好きだったのです。
 マルク・シャガール(1887-1985)の作品で教科書に出ている絵は,空を飛んでいる牛やさかさまになっている女の人などがあざやかな色彩で描かれていて,絵をかく楽しさ,絵を見る喜びをわかりやすく伝えてくれました。

 東京に出てきて美術館も近くなった年ごろには、シャガールの展覧会が開かれると,美術館でもデパートの客寄せギャラリーでも出かけて行って,見てきました。

 シャガールは1887年7月7日、帝政ロシア領ヴィテブスク(現ベラルーシ・ヴィツェプスク、Vycebsk,Witebsk、Vitebsk)の東欧系ユダヤ人家族に生まれ育ちました。父ザハール、母フェイガ・イタ。マルクは9人兄弟の長男です。ユダヤ名はモイシェ・セガル(Moishe Segal、משה סג"ל)ロシア名マルク・ザハロヴィチ・シャガル (Мойшe Захарович Шагалов)、ベラルーシ名モイシャ・ザハラヴィチ・シャガラウ。そして一般的には,フランスへ渡って画家として名をなしたあとのマルク・シャガールという名で通用しています。

 ロシアの美術学校で学んだあと、シャガールは1910年,23歳のときパリに出ます。1909年にロシアで出会った同郷人のベラ・ローゼンフェルトと、1915年に結婚。母が病死したためにロシアに戻り、ロシアでの結婚生活を続け1916年には、娘イダが誕生しました。1917年、革命により、帝政ロシアはソビエト政権に代わります。
 しかし、ソビエトの革命新政府は、シャガールの非現実的な作品を喜ばず、1922年には再びパリで生活するようになります。

 パリでは画家として成功を収めましたが,ユダヤ人であるシャガールは,ドイツナチのパリ侵攻に伴うユダヤ人迫害を恐れて,1941年にアメリカに亡命。実際、フランスでもユダヤ人は強制収容所に送られた人がいました。
 
 アメリカでの亡命生活中、1943年,愛妻ベラが病死してしまいます。娘イダと結婚相手との仲がうまくいっていないという状態も重なり、妻を失った56歳シャガールは制作もできないようになります。そのころ、シャガールの世話するようになったイギリス人女性がヴァージニア・ハガード(1915-)です。夫との結婚が破綻していた30歳のヴァージニアと、妻を失った58歳のシャガールの間に、息子デヴィット(1945-)が生まれます。

 第二次世界大戦が終わると、7年間ともにくらしたヴァージニアとは別れ、シャガールはフランスへ戻りました。1952年、ユダヤ系ロシア人女性ヴァレンティーナ・ブロドスキーという女性と再婚。
 正式な結婚をしなかったヴァージニア・ハガードは、シャガールと過ごした7年間を回顧して『シャガールとの日々―語られなかった7年間』という本を出版しています。

  3人の女性に愛されたシャガール。失意の時代もあったにせよ、その生涯はおおむね幸福であったと思います。

 目黒美術館の展覧会「マルク・シャガール-版画の奇跡 無限大の色彩」は、シャガールの版画リトグラフとエッチングを中心に展示されていました。

 ゴーゴリの小説『死せる魂』にシャガールの銅版画による挿絵がついて、出版されました。展示は、白黒の版画のわきにストーリーがついていて、ゆったりした館中で、ストーリーを追いながら版画を見ることができました。
 ゴーゴリが描き出すロシア民衆の姿が、ユーモラスだったり狡猾だったり凡庸だったり、さまざまな姿を見せていました。

 もうひとつは20色多色刷りの版画『サーカス』と、1961年の作品『ダフニスとクロエ』 
 サーカスは、ピカソやルオーもよくモチーフにしていた、20世紀の絵画に好まれたモチーフです。シャガールのサーカスも、楽しい中に物悲しいような雰囲気が伝わる版画です。
 ダフニスとクロエもとても美しい色彩にあふれ、ストーリーを追いながら版画をながめて、最後に若い恋人たちが幸福な結婚式を迎えると「よかったよかった」と祝福したい気持ちになります。



 シャガールはユダヤ人として生まれたゆえのつらい境遇もくぐりぬけ、愛妻の死や息子をもうけた愛人との別離も経験した人生でしたが、人生全体を振り返ってみて、晩年のシャガールは画家としての栄光と家庭の幸福に恵まれた一生だったと言えます。

 彼の絵を見ていると、「人間の肯定」を強じます。「サーカス」シリーズの中に描かれているように、華やかな中のさびしさも感じられ、「死せる魂」の白黒の銅版画の中に、人間を粗野で野卑な面から描いていても、こずるかったり狡猾だったりする人間たちにも何が無しの愛情とユーモアを感じるような、作風。

 絵の技法などなにもわからずに、ただ「好きだ、嫌いだ」と、わいわい言って絵をみていた中学生たちの、みんなが「この人の絵、すきだ」と言っていた気持ちが、いまもよくわかる、版画展でした。

 目黒美術館での展示は明日、6月8日までですが、展示作品のほとんどは、町田市立版画美術館と神奈川県立美術館の所蔵品だったので、貸出元の美術館で再び出会うこともできるかと思います。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「未来へ」

2014-06-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/06/05
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物散歩なつかしの小学校校舎(4)未来へ

 近代国家の成立と維持のために、学校は国家の重要戦略拠点でした。近代国家を維持していく「国民」を創世する目的のために、いかに教育が利用されてきたか国民」がいかに教育され、どのように利用されてきたか。近代史をふりかえると、歴史の繰り返しを憂えざるを得ません。
 昨今の教育行政を見ていると、これからどこへ行こうとしているのか、不安になる材料ばかりです。

 学校が子供たちにとって、仲間を得たり「心の友」を得たりする場所とはならず、おとなしく従順な駒のひとつとしか見てもらえないのなら、かけがえのない存在として認めてもらい、ひとりの人として尊重される場でないのなら、学校は建物だけの場所になることでしょう。学校は、建物だけでは成立しないのに。

旧開智小学校


 近代の成立と近代が残した負の遺産を考えると、学校制度をも再考すべき時にきているのだと感じます。考え続けているけれど、答えはまだ見つかっていません。
 真に子供たちの生き生きとした心身を育てる場として学校が存在することを、願い続けたいと思います。

旧開智小学校教室



<おわり>
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ぽかぽか春庭「愛恵学園愛の家」

2014-06-04 00:00:01 | エッセイ、コラム

愛の家(案内板の絵です)

2014/06/04
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物散歩なつかしの小学校校舎(3)愛恵学園愛の家

 東京は、コンクリートジャングル。ガラスと鉄筋とコンクリートでできたビルばかりで、木造校舎が残る環境がありませんでした。
 現在、都内で木造校舎が現役の学校施設として使用されているのは、自由学園初等部(東村山市)の校舎です。1930(昭和5)年に建てられ、木造校舎としては、都内でもっとも古い建物です。目白にある自由学園の施設は、昨年暮れに見学できましたが、東村山市の木造校舎、私はまだ見学したことがありませんので、いつか機会があったら、見に行きたいと思っています。

 都内の教育施設のうち、古い木造建築がわずかですが、残っています。教育施設としては使われなくなったあと、区の施設として利用されているのです。
 足立区関原にある「関原の森・愛恵まちづくり記念館」として地域の活動に利用されている木造建築。元は、愛恵学園の幼稚園保育園校舎でした。



 木造の「愛恵まちづくり記念館」が西新井近くに残されていると知り、「そうだ、荒川土手をサイクリングしよう」と思い立ちました。足立区の荒川沿いの土手は、テレビの金八先生シリーズで生徒たちが通学の行きかえりに三々五々歩いていたところです。足立区関原は、金八シリーズロケ地の日の出地区よりも少し上流です。

 気温が真夏日になった6月1日の荒川土手のサイクリング。
 ママチャリをフーフー言いながらこいで、水分補給につとめました。往復2時間強のサイクリング、ちょっと膝が痛くなり「昔は葛西臨海水族園まで、片道2時間こいでも平気だったのに」と、年を感じました。

 隅田川と荒川にはさまれた地域は、昔も今も、零細な工場が立ち並んでいるところです。私が走ったコースでも、産業廃棄物中間処理工場、空き缶がパックになって並んでいたリサイクル工場、機械工場など、さまざまな工場が続いていました。
 小津安二郎の『東京物語』はじめ、映画のロケ地としてもしばしば戦後の白黒映画の中に登場する地域。「貧しくわびしい東京」を表現する地域でした。
 関原地区、今はこぎれいな住宅街になっています。

 目的地「関原の森・愛恵まちづくり記念館」について、くわしくは調べずに出かけたので、元はキリスト教の教育施設だったときいて、ミッションスクール?と思いました。
 私のイメージでは、明治から昭和戦前期に建てられたミッションスクールというと、一般の人には手の届かないお嬢様学校、坊ちゃま学校、という印象です。ちょっと洒落た雰囲気がして、お高い授業料を納められるような家庭の子女を集めてハイソな教育を施す、、、、というような。

 入口の案内板を読むと。
 日本メソジスト教会が1883(明治18)年に設立した美似美尋常小学校が前身。1923年、関東大震災で校舎が消失、足立区関原で1930年から1990年まで、社会福祉施設(保育、幼児教育)として教会が運営してきました。
 1930年、ミス・ペインが学園を創立し1962年まで園長をつとめた、と案内板に書かれています。



 メソジスト派キリスト教のミルドレッド・アン・ペイン宣教師は、関東大震災後の日本にあって、極貧のこの地域にこそキリスト教精神の教育福祉施設が必要だと思いました。当時、この地域には零細民が多く、戸籍未登録の児童も数多くいました。戸籍がないので学校にもいけず、放置されたまま貧しさの連鎖につながる子供たち。ミス・ペインは、この子供たちにこそ教育が必要だと考えました。

 子供たちに栄養のある食事を与え、教育を受けられるようにする、ということを使命として、ミス・ペインは「愛の家」「恵の家」「光の家」を設立しました。高度成長期にもこの地域にはまだ貧しさが残っていた1962年まで園長をつとめて、子供たちの世話をしました。

 1990年、「貧しい子供たちに栄養と教育を」という設立理念は役割を終えた、として、福祉教育施設としての「愛恵学園」は閉鎖。
 木造校舎のうち「愛の家」が「足立区愛恵まちづくり記念館」として存続することが決まりました。愛恵学園は「公益財団法人・愛恵福祉支援財団」となって本拠地を東京都北区中里に移転し、福祉を学ぶ学生におくる「ペイン記念奨学金」などの活動を行っています。

 「愛の家」は「愛恵まちづくり記念館」として、地域の活動に提供されています。私が訪れた6月1日午前中。1階で小学校以下の子供たちによる「カポエィラ練習」の活動が行われていました。カポエィラはブラジルの武道ですが、格闘技であると同時にダンスでもあります。相手を倒すのではなく、リズミカルに動きながら相手を圧倒していく武道なのです。
 カポエィラは、ブラジルの黒人奴隷やしいたげられたインディオたちの身を守る武術として発達してきた武道です。

 留学生に母国の文化紹介としてカポエィラを披露してもらったとき、ブラジル出身の学生が型だけを見せてくれました。拍手によるリズム取りと歌は「同時にはできない」として割愛しましたので、歌つきのカポエィラ、生では初めて見ました。といっても、正式な見学ではなく、ドアのすきまからこっそりと。すみません。あまりに楽しそうなようすだったので、のぞいちゃいました。

 お母さんたちが手拍子をとり、先生が歌うなか、子供たちは教えられた格闘技の技を操出して踊っていました。
 最後に先生は「今日の練習、たのしくできた人!」と子供たちに呼びかけ、子供たちは元気に「ハ~イ」と答えていました。子供たち、強く元気に育ってね。

 私は2階に上がって見学をつづけました。
 極貧地帯の戸籍もない子供たちに愛の手を差し伸べたミス・ペイン。2階の談話室書棚の上に肖像画が掲げられていました。ちょっと厳しめの表情ですが、信念に貫かれた意志を感じる肖像でした。

右上の肖像画がミス・ペイン

2階談話室
階段
2階廊下

 金八先生が中学生に声かけながら歩いた荒川土手。ミス・ペインが生涯をささげて貧しい子供たちを愛した学び舎。子供たちを励ましながらカポエィラを指導していた若い先生、、、、
 私はショーモない教師だけれど、先達の思いをたどりながら、とぼとぼと歩いていきます。
 真夏日の東京。う~暑い、と文句を言いながら、ハーフマラソンが行われている荒川河川敷を見下ろしつつ荒川土手を自転車で走りました。こんな暑い中、よくもマラソン走ったりする気になるなあ。って、私もいい年をして、よくも真夏日にママチャリで遠出したりするなあ。

 朝9時まえから自転車とばして、「愛の家」見学に満足して12時前には最寄り駅にもどりました。
 地下鉄に乗って、6月1日午後の部は姑宅訪問。6月に姑の卒寿祝いをやることについて、夫と相談。近所のイタリアンの店で内輪でやることに決定。
 そのあとひとりで目黒美術館見学。
 真夏日にちょっと動きすぎの1日でしたけれど、元気なカポエィラにも、信念の人のミス・ペインにもエネルギーもらったから大丈夫。

 と、思ったら、翌日姑から電話がありました。「うちの台所にケータイがおいてあるの。あなたのじゃない?」
 そうです。夫は「今どき、信念をもってケータイ持っていない人」なので、まちがいなくわたしのです。やっぱり真夏日の太陽に照らされた頭は、ぼけていたのでした。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「広尾小学校・昭和復興小学校」

2014-06-03 00:00:01 | エッセイ、コラム


2014/06/03
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物散歩なつかしの小学校校舎(2)広尾小学校・昭和復興小学校

 復興小学校とは、1923(大正12)年9月の関東大震災で多くの小学校が倒壊火災被害にあった後に、復興事業の一環として建築された小学校の総称です。
 1924年から1935年にかけて、117の小学校が、不燃コンクリート化され、災害時には避難場所ともなるように設計されました。
 中央区明石小学校、千代田区九段小学校、台東区坂本小学校、中央区泰明小学校など。現役の小学校も多いですし、生徒数現象のために廃校になったあとも、耐震工事をしたうえで地域活性化に役立つ利用がされている建物が多いです。

 復興小学校のひとつ、渋谷区立広尾小学校は、山種美術館のそばにあるので、山種に行くおりに立ち寄りました。

外の道路側から見た広尾小学校


 最初に行ったときは、日曜日でしたが、地域の子供のための小学校校庭開放日でした。PTAの役員さんが受付をしていたので、見学を頼んだら名簿記入もなしにOKしてくれました。近頃の小学校では外部者の来訪に異常なほど神経質になっているところもあるのに、名刺も身分証明書の提示もなしに見学OKでいいのかとも思いましたが、なにかやらかそうと思うような人だったら、名刺や身分証明書もどうせ偽造品でしょうから、紙切れが保証にはならないし、ま、いいかと校舎の中まで入って見学させてもらいました。

 玄関のひさし飾りや丸い窓が「昭和モダン」っぽい
  



 復興小学校として建設された当時、地域の消防署も併設されたため、小学校なのに、火の見櫓のような望楼がついています。

 

 校庭開放日の広尾小学校。PTA係員のお父さんお母さんたちが見守る中、子供たちは、サッカーやバスケットに興じていました。
 震災に負けずに強い子供に育ってほしいという親たちの願いをこめて建てられたであろう復興小学校。大正の関東大震災から90年経つ今も、地域の小学校として子供たちの声が響いているようすを見たら、新しい小学校の建設に関わった人たち、うれしいだろうなあと思いました。



<つづく> 
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ぽかぽか春庭「鎌倉御成小学校講堂」

2014-06-01 01:00:01 | エッセイ、コラム


2014/06/01
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物散歩なつかしの学校校舎(1)鎌倉御成小学校講堂

 5月31日土曜日。近所の小学校では、運動会が行なわれていました。最近の学校行事の年間スケジュールでは、春に運動会、夏にプール大会、秋に文化祭、冬にマラソン大会&合唱会。というのが多くなってきたみたいです。
 運動会は「地域行事」として根付いて、学校行事のなかでも大勢の見物客を集めます。

 春の運動会とはいっても、31日は東京の気温33度まで上昇した真夏日。天気予報では「熱中症にならないようにこまめに水分を取るようにと注意していました。応援のじいちゃんばあちゃん、孫のがんばる姿への声援に夢中になって飲み物とるのも忘れてしまったなんてことになっていなかったらいいのですが。

 走る子供の姿を記録に残すのも、パパはデジタルビデオ、じいちゃんはデジタル一眼レフ、ママはケータイで、と、それぞれ分担してさまざまな角度からとって編集するみたいです。簡単な「シャッター押すだけ」カメラで撮ってた私の写真、どのシーンでもみんなボケてしまって、まともに写っているのがなかったという時代とは大違いです。

 動き回る子供の姿をうまく撮れなかっただけでなく、私と来たら、じっとしている建物の写真だって未だにまともに撮れないのですけれど、それでも、自分の記憶のために、いく先々でなんとかシャッターは押してます。昔と違って、気に入らなかった写真は削除ボタンを押すだけで消えますので、数うちゃ当たる式。1枚くらいまともに写っているのがあるだろうという気持ちでいるのですが、ちゃんと撮れているのが1枚もないこともしばしば。どんだけ下手くそなのか。

 建物散歩の写真、へたでもなんでも、自分の記憶と記念のためにですから、今年は洋館めぐりをUPしてきました。
 今回は学校の写真を中心にUPしてみます。

 学校建築は、明治のはじめから各地域が競って「おらほの村でも、教室にガラス窓からたっぷり光が入るようなハイカラな建物に子供たちを通わせたい」という熱意で、次々に新しい校舎が立ちました。

 明治大正時代の木造校舎、関東大震災のあと、昭和のはじめに続々と建てられた「昭和の復興校舎」、それぞれの時代にとって、学校校舎は地域のシンボルにもなり、なにより大勢の子供たちにとっては、心のふるさとです。

 現在放映中のNHK朝の連続テレビドラマ『花子とアン』。私はビデオにとって見ています。「アンが大好きな少女」のひとりだったので。
 実在の村岡花子は山梨英和女学校に赴任した英語教師でしたが、ドラマの安東はなは、ふるさとの母校の小学校で代用教員となります。小学校の屋根の上をはなが歩くシーンなど、アンのエピソードにひっぱりすぎと思いますけれど、楽しく見ています。

 はなの母校であり代用教員として働く小学校は、『おひさま』の須藤陽子(演:井上真央)の母校&勤務先の小学校と同じロケ地で、茨城県太子町の旧上岡小学校(2013年廃校)だそうです。
 明治期に創立された小学校で、昭和期に木造2階建て校舎が完成。今残されている校舎は、ガラス窓にそのころのガラスが残っているものもあるということで、貴重です。
 太子町の観光協会のHPに出ている旧上岡小学校。現在は袋田の滝とならぶ観光目玉「里山小学校」として、レストランなどがオープンしています。専門家が撮った写真、やはりきれいです。



 画面に出てくると、私が学んだ「北小学校」の木造校舎を思い出して、なつかしい気がします。クラスメートだったひさちゃんは、陽子やはなと同じように自分の母校に赴任した小学校教師でしたが、「北小学校も、とっくの昔に全部コンクリート製の校舎になっているよ」と言っていました。

 今年2月に鎌倉散歩をしたとき、駅に戻る途中で偶然立ち寄った鎌倉市立御成小学校。旧鎌倉御用邸の跡地に、1933(昭和8)年落成しました。敷地内が鎌倉幕府の今小路西遺跡(鎌倉郡の郡衙跡)という歴史的な場所でもあります。
 旧校舎は、火災消失しましたが、旧講堂など一部分は残されています。旧校舎全部取り壊し、新校舎建設という案もあったそうですが、鎌倉幕府遺跡の考古学調査もあったため、取り壊しは免れた、という講堂。講堂としては使われていないようでかなりボロボロになったままのようすでした。

 世界遺産には落選しましたが、さまざまな歴史的建物のひとつとして、この御成小旧講堂も補修の予算がつくといいのですが。観光課長の中井貴一さん、がんばってください。って、ドラマの中ですけれど。

 高浜虚子が書いた「御成小学校」という書をもとにして彫ったという校門。補修はしてありますが、もとは御成門だったときくと、何やらありがたそうな。



 御成小学校旧講堂




 旧上岡小学校の写真に比べ、不鮮明ですが、そもそも暗くなってきたので駅に向かって帰り始めた途中でした。2月1日の夕暮れどき、そろそろ鎌倉の駅周辺にも電気がつく、という時間の撮影でした。 私のデジカメではめいっぱい明るさを上げてとったので、これがせいいっぱいの画像でした。

<つづく> 
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