20141210
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(15)遙かなる楽園南の島
遙かなる楽園・南の島
at 2003 10/21 06:58 編集
講談社インターナショナルの取締役、マグロウヒル出版の社長、という職をなげうって、フィリピンセブ島近くの小島カオハガンを島ごと全部買って移住した人がいる。崎山克彦がその人。うらやましい。
沖縄に惹かれて住みついたり、いっとき住居を移したりする人もたくさんいる。作家では、琉球大学で2年間勉学を続けた澤地久枝を紹介したが、ほかに灰谷健次郎、立松和平、池澤夏樹。演劇界では宮本亜門も沖縄に家を建てた。これまたうらやましい。
南の島が大好き。いつか、移住したい。サンシンもならいたい。アウトリガーカヌーをこいで、珊瑚礁の海をぼんやり見ていたい。
老後の過ごし方として、ハワイ、マレーシア、ニュージーランドなどで「年金で暮らすロングステイ海外生活」が脚光を浴びている。物価が安く、安全な土地で、異文化交流を楽しみながらロングステイをする。
日本の高額な年金があるなら、海外では大きな家に住み、ときにはメイドを雇って生活できる。なんだかいいことづくめである。
しかしながら、現実を見てみると、私には崎山さんが「1000万円の退職金を全部つぎ込んで島を買った」という、その退職金はないのである。非常勤講師がもらえるのは、日当だけ。ボーナスも退職金もない、日雇い仕事なのだ。
年金で豊かな海外生活というけれど、年金も私にはないのだった。はかない夢を夢見るだけで、目の前の「日雇取り」仕事に励むのみ。
子供の頃「ヒヨトリ」仕事をしている人は、月給取りの社員に比べて格が低いと言われ、「おまえのお父さんは月給取りでよかったねぇ。おまえもヒヨトリなんかになるな。ちゃんとした月給取りになれ」と、近所のオバサンに諭されたことがある。しかし、その「ヒヨトリ」とは、どんな仕事か分らないでいた。
漢字で書けば、湯桶読み「日雇ヒヨウ」で、日銭を稼いで取る「日雇取り」であった。現在の、私の雇用形態、まさしく「日雇取り」である。契約は1年ごとに更改だが、支払いはヒトコマなんぼの日銭稼ぎ。
さて、南の島もさらに遠い。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.28
(は)畑中幸子『ニューギニア高地社会』初出は「われらチンブー」
子供の頃、毎晩布団の中で、子守歌がわりに父の「南の島のおはなし」を聞いた。黒い顔の人たちが、椰子を拾ったり、魚をとったり。日本兵の背嚢の中味に興味を示すので、荷物の中からひとつひとつ取り出し、食べ物と交換していった。しまいには何も交換するものがなくなった。おとぎ話のように繰り返される南の島の話。
真実を言えば、その島ニューアイルランド島で、父たちは「陸軍の捨て子」となって飢えていたのだった。食べ物がなく、カエルもヤモリも何でも食べた。敗戦の報は絶対うそだと思ったが、捕虜になって隣のニューブリテン島ラバウルに収容されたときは、むしろほっとした。
父が捕虜生活を終えて帰還船に乗ったとき、残されたのは、弱った身体と「一つの食べ物をめぐって人が裏切り合う極限の生活」から得た「人間不信」だけだった。
それでも生きて帰った父たちは幸運だった。ニューギニア戦線で、大半の兵士は死んだのだから。銃で死に、熱帯の病に臥し、そしてほとんどは飢えて死んだ。大岡昇平が『俘虜記』『野火』『レイテ島戦記』で描いたことがらは、ニューギニア戦線でもそのまま同じことが起きていたのだ。
本多勝一『ニューギニア高地人』によって、多くの日本人がパプアニューギニアの人の生活を知った。父が出征したニューアイルランド島と、パプアニューギニア本島の山中の民族の暮らしは異なるものだが、私にとっては「ニューギニア」は、自分の住んでいる町の次に親しい地名だった。
畑中幸子の『ニューギニア高地社会』も、「いつか、この土地へ行って、文化人類学者、民族文化研究家としてフィールドワークしたいなあ」というあこがれをつのらせた一冊だった。
パプアニューギニアのシンシンなどの祭典、仮面舞踊を研究したかった。いろいろ資料を集めたが、パプアニューギニアに何のツテもなく、結局、従姉妹が海外青年協力隊員としてハイスクール理科教師をしているケニアに行くことになった。1979年のこと。
<つづく>
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(15)遙かなる楽園南の島
遙かなる楽園・南の島
at 2003 10/21 06:58 編集
講談社インターナショナルの取締役、マグロウヒル出版の社長、という職をなげうって、フィリピンセブ島近くの小島カオハガンを島ごと全部買って移住した人がいる。崎山克彦がその人。うらやましい。
沖縄に惹かれて住みついたり、いっとき住居を移したりする人もたくさんいる。作家では、琉球大学で2年間勉学を続けた澤地久枝を紹介したが、ほかに灰谷健次郎、立松和平、池澤夏樹。演劇界では宮本亜門も沖縄に家を建てた。これまたうらやましい。
南の島が大好き。いつか、移住したい。サンシンもならいたい。アウトリガーカヌーをこいで、珊瑚礁の海をぼんやり見ていたい。
老後の過ごし方として、ハワイ、マレーシア、ニュージーランドなどで「年金で暮らすロングステイ海外生活」が脚光を浴びている。物価が安く、安全な土地で、異文化交流を楽しみながらロングステイをする。
日本の高額な年金があるなら、海外では大きな家に住み、ときにはメイドを雇って生活できる。なんだかいいことづくめである。
しかしながら、現実を見てみると、私には崎山さんが「1000万円の退職金を全部つぎ込んで島を買った」という、その退職金はないのである。非常勤講師がもらえるのは、日当だけ。ボーナスも退職金もない、日雇い仕事なのだ。
年金で豊かな海外生活というけれど、年金も私にはないのだった。はかない夢を夢見るだけで、目の前の「日雇取り」仕事に励むのみ。
子供の頃「ヒヨトリ」仕事をしている人は、月給取りの社員に比べて格が低いと言われ、「おまえのお父さんは月給取りでよかったねぇ。おまえもヒヨトリなんかになるな。ちゃんとした月給取りになれ」と、近所のオバサンに諭されたことがある。しかし、その「ヒヨトリ」とは、どんな仕事か分らないでいた。
漢字で書けば、湯桶読み「日雇ヒヨウ」で、日銭を稼いで取る「日雇取り」であった。現在の、私の雇用形態、まさしく「日雇取り」である。契約は1年ごとに更改だが、支払いはヒトコマなんぼの日銭稼ぎ。
さて、南の島もさらに遠い。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.28
(は)畑中幸子『ニューギニア高地社会』初出は「われらチンブー」
子供の頃、毎晩布団の中で、子守歌がわりに父の「南の島のおはなし」を聞いた。黒い顔の人たちが、椰子を拾ったり、魚をとったり。日本兵の背嚢の中味に興味を示すので、荷物の中からひとつひとつ取り出し、食べ物と交換していった。しまいには何も交換するものがなくなった。おとぎ話のように繰り返される南の島の話。
真実を言えば、その島ニューアイルランド島で、父たちは「陸軍の捨て子」となって飢えていたのだった。食べ物がなく、カエルもヤモリも何でも食べた。敗戦の報は絶対うそだと思ったが、捕虜になって隣のニューブリテン島ラバウルに収容されたときは、むしろほっとした。
父が捕虜生活を終えて帰還船に乗ったとき、残されたのは、弱った身体と「一つの食べ物をめぐって人が裏切り合う極限の生活」から得た「人間不信」だけだった。
それでも生きて帰った父たちは幸運だった。ニューギニア戦線で、大半の兵士は死んだのだから。銃で死に、熱帯の病に臥し、そしてほとんどは飢えて死んだ。大岡昇平が『俘虜記』『野火』『レイテ島戦記』で描いたことがらは、ニューギニア戦線でもそのまま同じことが起きていたのだ。
本多勝一『ニューギニア高地人』によって、多くの日本人がパプアニューギニアの人の生活を知った。父が出征したニューアイルランド島と、パプアニューギニア本島の山中の民族の暮らしは異なるものだが、私にとっては「ニューギニア」は、自分の住んでいる町の次に親しい地名だった。
畑中幸子の『ニューギニア高地社会』も、「いつか、この土地へ行って、文化人類学者、民族文化研究家としてフィールドワークしたいなあ」というあこがれをつのらせた一冊だった。
パプアニューギニアのシンシンなどの祭典、仮面舞踊を研究したかった。いろいろ資料を集めたが、パプアニューギニアに何のツテもなく、結局、従姉妹が海外青年協力隊員としてハイスクール理科教師をしているケニアに行くことになった。1979年のこと。
<つづく>