ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

徳島県藍住町、住吉神蔵「藍住町立 住吉児童館のクスノキ」です!!

2024-07-03 18:31:25 | 巨樹・大木
 住吉神蔵地区は、藍住町役場の南東約1kmのところ

 藍住町役場の東側の県道225号線を南へ、約700mで信号を鋭角に左(北東)へ、県道29号線です

 約1kmで集合住宅の手前を左(北)へ入ります、右手の林が住吉神社の境内です

 約200mの道路交差点が広場になっている北東側に「藍住町立 住吉児童館」です

 児童館のフェンスの中にクスノキです

 南側から、目通り幹囲5.5mの巨木です

 南西側から見ました

 *枝は子供たちの安全の為でしょうか、かなり切り詰められています

 付近は「住吉城」の跡だそうです(説明版は、広場の西側の八坂神社・住吉集会所前に建っています)
    藍住町指定史跡 
      住吉城址
 中世城址で城主山田家、天正13年(1585)に赤松則房の住吉藩(1万石)が立藩され、その居城、中心部は東西83.4m、南北100mの水田中にあり、城主を祀る城神さんの小塚が現在、その北に赤松屋敷があったという。

 *天正8年(1580)山田陸大夫によって築かれたと云われるが定かではない。
  山田氏は佐々木六角氏の家臣で近江国山田に住んでいたが、六角氏が織田信長に敗れた後に三好氏を頼り、この地に城を築いて住んだと云われる。
 しかし、天正10年(1582)中富川合戦で三好氏は長宗我部氏に敗れ、勝瑞城も落城すると住吉城も運命をともにしたという。
 天正13年(1585)豊臣秀吉による四国征伐の後、播磨国置塩城主赤松二郎則房はその功によって板野郡内二十三ヶ村で一万石の所領が与えられ、住吉城に居城を移した。
 関ヶ原合戦で赤松氏は西軍に属して滅亡し、赤松氏の置塩領は徳島藩主蜂須賀家の所領となった。
  赤松則房は慶長3年(1598)に没し、家督を継いだ赤松則英が西軍に属して敗れて自刃、名門赤松氏は滅亡したといわれるが、則房と則英は同一人物ともいわれ詳らかではない。
 平城の住吉城は「城神さん」と呼ばれる小祠のある辺りが城跡といわれる。
 現在は宅地や田畑で遺構はなく、八坂神社の所に案内板が設置され、その南東の畑の中に「城神さん」と呼ばれる小祠が残っているのみである。(以上、城郭放浪記の一部抜粋です)

 では、次へ行きましょう




 2024・6・7・17・30
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徳島県藍住町、住吉神蔵「住吉神社のクスノキ」です!!

2024-07-03 13:11:00 | 巨樹・大木
 住吉神蔵地区は、藍住町役場の南東約1kmのところ

 藍住町役場の東側の県道225号線を南へ、約700mで信号を鋭角に左(北東)へ、県道29号線です

 約1kmで集合住宅の手前を左(北)へ入ります、また直ぐを右(東)へ

 道路左側に広がる林は住吉神社の境内の一部だそうです

 道路脇に車を止めさせて頂きました

 参道石燈籠から道路を挟んで鳥居です

 石燈籠の北側に目的のクスノキです

 クスノキの南に東向きの境内社「八坂神社・恵比寿神社」の社です

 南東側から

 東側から、細い注連縄が巻かれていますのでご神木ですね

 北側から

 北西側から、樹高22m、目通り幹囲7.2mの巨木です

 南西側から見上げました

 では、住吉神社にお参りしましょう

 説明版です
   郷社住吉神社略記
 1、御祭神 底筒之男神・中筒之男神・上筒之男神=筒之男三神(住吉三神)航海安全・農耕の神
       神功皇后 ノ四柱大神
 1、鎮座地 徳島県板野郡藍住町住吉字神蔵
 1、お祭り 10月11日
 1、御由緒
 抑も筒之男三神は、黄泉国(死者を葬る地)より地上に戻った伊弉諾尊が日向の橘の小門の奥原(阿波岐原)にて、黄泉国の穢を洗い雪ぎ祓い給いし時に生まれた大神なり。
 神功皇后(仲哀天皇の皇后、別名息長帯比売命)は、紀元前201(仲哀9)年10月に筒之男三神の神託(神のお告げ)に従って三韓(新羅・高句麗・百済)へ向かい、三韓を随々討ち従え帰り給う。
 凱旋した神功皇后は、筒之男三神の働きに感謝し摂津の国(大阪府)住吉の地に、この筒之男三神(住吉三神)を祀り給う。
 後に、神功皇后を合わせ祀り住吉四社大神と仰ぎ奉るものなり。
 当社(住吉神社)御鎮座は「住吉幽孝秘記」に曰く。
 承安2年7月に津守国房が罪を受け阿波の国に流され、その憂い悲しみ耐え難く、密かに当社を祀り帰国を許されんことを祈る。
 以後、当社の神の霊告により解かれ帰国を許されたり。
 その後、源義経が元歴2年2月、摂津の渡辺から福島を16日丑の刻に発ち、翌日卯の刻に阿波の勝浦の着き給う。
 これより讃岐に越えし給う時、折しも2月17日更衣の雨に雪水添い、角瀬の河水が漲溢し白波は渦を巻き如何して渡ろうと思い召し、合掌し住吉四柱大神に、「この河水の浅瀬を示し給えと祈念し給う。住吉大神は三韓征伐の軍神、天慶の昔は伊予の純友降伏の霊験、著しかりし如く、加護し給え。」と祈願の詞も終わらない内に、白鷺が2羽現れて河端に留まりけり。
 「これが神の教えならば霊験を現し給え。」と心中に祈願し給えば、不思議なる哉、2羽が一度に浅瀬を知らすが如し河上に駆け、是に依りた雑兵は水の流れを除け難なく河を渡りければ、大将始め皆渡る事を得て、中村と云う所に来たりし時、前年に津守国房の祀りし住吉の小祠有り。判官殿(源義経)は凱旋後朝廷に奏聞し、社を造営致し給う。
 斯くの如く由緒正しい社故、中古細川氏を四国の管領として勝端に舘を置き、それ以来篤く崇敬し神主には重臣を以て補任する慣わしなりし。即ち、天文年中は三好筑前守元長の三男豊前守義賢を神主に補いせし事が、「南海治乱記」記されたり。
 斯く、管領家崇敬の社故に社殿端善美をつくせしに、天正10年に土佐の乱の兵火に遭い、古記・古物を悉く焼失す。後に、造営せし社は今の構造なり。
 1、社殿営繕
 前記の如く古き歴史を有する社殿も徐々に腐朽し、折から明治10年8月大暴風雨の際、佐屋殿が倒木にて破壊せし給う。
 当時、農村は不振不況故再興が不可能にて、そのまま30余年が経過ち、ようやく明治45年に復舊の功成りし。
 然るに、又々、昭和9年の大暴風雨により、佐屋殿の御屋根を破壊し、付いては大修復を急告するに至る。
 しかし、打ち続く不況にも関わらず、「神威尊厳」に関するとし佐屋殿を復舊すると共に、玉垣新設の議も数回にて纏まる。
 氏子並びに氏子出身敬神諸彦の絶大なる芳情による寄付金、約9千円にて永年の願望を遂行し得たるは、我国伝統の美風なる敬神崇租の尊き顕れで有り、是は道徳の根源にして、今の社会情勢に手本とし誠に敬賀すべき現象なりと。
       己上


 参道を進みます

 手水舎です

 拝殿です

 横長に大きな本殿です、こちらが佐屋殿でしょうか

 本殿に附属する南側の建物には境内社の天神社です

 では、次へ行きましょう



 2024・6・7・17・20

 
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徳島県藍住町、徳命元村「徳命八幡神社のクスノキ」です!!

2024-07-03 06:38:38 | 巨樹・大木
 徳命元村地区は、藍住町役場の南約1kmのところ

 藍住町役場の東側の県道225号線を南へ進みます

 約1.2kmで鋭角に左(東)へ、県道29号線です

 約300mの信号を右(南)へ入ると、八幡神社の玉垣が見えて来ます

 神社西側の道路の突き当りを左(東)へ

 南南西向きに徳命八幡神社が鎮座します

 神社南側には車を止められる幅が無いので、境内北側の道路わきに車を止めさせて頂きました

 境内東側にはクスノキが並びます

 境内北東側です

 拝殿です

 本殿です

 *八幡神社の御祭神は、品陀和気命(ほむだわけのみこと・応神天皇)です

 本殿東側の境内北東端に目的のクスノキです

 南側から、目通り幹囲5.5mの巨木です

 西側から

 では、次へ行きましょう



 2024・6・7・17・10

 
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