住吉神蔵地区は、藍住町役場の南東約1kmのところ
藍住町役場の東側の県道225号線を南へ、約700mで信号を鋭角に左(北東)へ、県道29号線です
約1kmで集合住宅の手前を左(北)へ入ります、右手の林が住吉神社の境内です
約200mの道路交差点が広場になっている北東側に「藍住町立 住吉児童館」です
児童館のフェンスの中にクスノキです
南側から、目通り幹囲5.5mの巨木です
南西側から見ました
*枝は子供たちの安全の為でしょうか、かなり切り詰められています
付近は「住吉城」の跡だそうです(説明版は、広場の西側の八坂神社・住吉集会所前に建っています)
藍住町指定史跡
住吉城址
中世城址で城主山田家、天正13年(1585)に赤松則房の住吉藩(1万石)が立藩され、その居城、中心部は東西83.4m、南北100mの水田中にあり、城主を祀る城神さんの小塚が現在、その北に赤松屋敷があったという。
*天正8年(1580)山田陸大夫によって築かれたと云われるが定かではない。
山田氏は佐々木六角氏の家臣で近江国山田に住んでいたが、六角氏が織田信長に敗れた後に三好氏を頼り、この地に城を築いて住んだと云われる。
しかし、天正10年(1582)中富川合戦で三好氏は長宗我部氏に敗れ、勝瑞城も落城すると住吉城も運命をともにしたという。
天正13年(1585)豊臣秀吉による四国征伐の後、播磨国置塩城主赤松二郎則房はその功によって板野郡内二十三ヶ村で一万石の所領が与えられ、住吉城に居城を移した。
関ヶ原合戦で赤松氏は西軍に属して滅亡し、赤松氏の置塩領は徳島藩主蜂須賀家の所領となった。
赤松則房は慶長3年(1598)に没し、家督を継いだ赤松則英が西軍に属して敗れて自刃、名門赤松氏は滅亡したといわれるが、則房と則英は同一人物ともいわれ詳らかではない。
平城の住吉城は「城神さん」と呼ばれる小祠のある辺りが城跡といわれる。
現在は宅地や田畑で遺構はなく、八坂神社の所に案内板が設置され、その南東の畑の中に「城神さん」と呼ばれる小祠が残っているのみである。(以上、城郭放浪記の一部抜粋です)
では、次へ行きましょう
2024・6・7・17・30
藍住町役場の東側の県道225号線を南へ、約700mで信号を鋭角に左(北東)へ、県道29号線です
約1kmで集合住宅の手前を左(北)へ入ります、右手の林が住吉神社の境内です
約200mの道路交差点が広場になっている北東側に「藍住町立 住吉児童館」です
児童館のフェンスの中にクスノキです
南側から、目通り幹囲5.5mの巨木です
南西側から見ました
*枝は子供たちの安全の為でしょうか、かなり切り詰められています
付近は「住吉城」の跡だそうです(説明版は、広場の西側の八坂神社・住吉集会所前に建っています)
藍住町指定史跡
住吉城址
中世城址で城主山田家、天正13年(1585)に赤松則房の住吉藩(1万石)が立藩され、その居城、中心部は東西83.4m、南北100mの水田中にあり、城主を祀る城神さんの小塚が現在、その北に赤松屋敷があったという。
*天正8年(1580)山田陸大夫によって築かれたと云われるが定かではない。
山田氏は佐々木六角氏の家臣で近江国山田に住んでいたが、六角氏が織田信長に敗れた後に三好氏を頼り、この地に城を築いて住んだと云われる。
しかし、天正10年(1582)中富川合戦で三好氏は長宗我部氏に敗れ、勝瑞城も落城すると住吉城も運命をともにしたという。
天正13年(1585)豊臣秀吉による四国征伐の後、播磨国置塩城主赤松二郎則房はその功によって板野郡内二十三ヶ村で一万石の所領が与えられ、住吉城に居城を移した。
関ヶ原合戦で赤松氏は西軍に属して滅亡し、赤松氏の置塩領は徳島藩主蜂須賀家の所領となった。
赤松則房は慶長3年(1598)に没し、家督を継いだ赤松則英が西軍に属して敗れて自刃、名門赤松氏は滅亡したといわれるが、則房と則英は同一人物ともいわれ詳らかではない。
平城の住吉城は「城神さん」と呼ばれる小祠のある辺りが城跡といわれる。
現在は宅地や田畑で遺構はなく、八坂神社の所に案内板が設置され、その南東の畑の中に「城神さん」と呼ばれる小祠が残っているのみである。(以上、城郭放浪記の一部抜粋です)
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