ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

徳島県神山町、下分地中「焼山寺のスギ」です!!

2024-07-12 18:30:08 | 巨樹・大木
 下分地中地区は、神山町役場の北西約5kmのところ

 神山町役場の北側の道路を東へ出て、約200mの信号を左(北西)へ、国道439号線です

 約1.1kmの交差点に「12番焼山寺⇒」の案内板に従って右(北)へ、県道43号線チェリーロードです

 間も無く「鮎喰川」を渡って「左右内谷川」に沿うように、坂道を上って行きます

 約3.5kmで「⇐12番勝山寺5km」の標識に従って左(西)へ

 道成りに約4.9kmの細い道路を対向車に注意しながら進むと広い駐車場に入りました

 参道を進みます

 更に参道を進みます

 本堂まで後110mです

 しかしここから南東向きの参道石段を上ります

 山門の仁王門です

 仁王門の前に「四国第12番霊場 焼山寺」の寺号標です

 山門を潜ると杉の大木の並ぶ参道です

 納経所の前のスギが参道では一番太い一本です

 東側から

 北側から見上げました

 本堂です
 
 右端には「十二番神社」です

 十二神社本殿です

 神社の脇のスギの大木です

 西側から、二本の合体木ですが、目踊り幹囲6m(目測)の巨木です

 では、納経所に寄って次へ行きましょう

 *この後「左右内の一本杉」を目指して林道を進みましたが、後1kmほどのところで、道端の枯れたマツの木が倒れたばかりのようで、林道を防いでいて通れなくなっていましたので諦めました

 
 2024・6・8・16・00


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徳島県神山町、下分地中「四国八十八ヶ所第12番・焼山寺(しょうさんじ)」です!!

2024-07-12 12:58:18 | 四国八十八霊場
 下分地中地区は、神山町役場の北西約5kmのところ

 焼山寺は焼山寺山(標高938m)の北東斜面上の標高700m付近です

 遍路道は、11番藤井寺から山越えをして、一度南の焼山寺まで行ってから、又徳島市の13番大日寺へ戻ります

 神山町役場の北側の道路を東へ出て、約200mの信号を左(北西)へ、国道439号線です

 約1.1kmの交差点に「12番焼山寺⇒」の案内板に従って右(北)へ、県道43号線チェリーロードです

 間も無く「鮎喰川」を渡って「左右内谷川」に沿うように、坂道を上って行きます

 約3.5kmで「⇐12番勝山寺5km」の標識に従って左(西)へ

 道成りに4.9kmの細い道路を対向車に注意しながら進むと広い駐車場に入りました

 案内図です、境内の様子を覚えて行きましょう

 参道入口の布袋様です

 参道を進みます

 右側斜面に鬼子母神堂です

 更に進むと

 お不動様です

 お不動様の背面に観音様です

 寝釈迦像です

 文殊菩薩です

 普賢菩薩です

 地蔵菩薩です

 弥勒菩薩です

 薬師如来です

 観世音菩薩です

 勢至菩薩は木の陰に成っていました

 阿弥陀如来です

 阿閦如来です

 更に参道を進みます

 大日如来です

 本堂まで後110mです

 しかしここから南東向きの参道石段を上ります

 山門の仁王門です

 仁王門の前に「四国第12番霊場 焼山寺」の寺号標です

 説明版です
   焼山寺縁起
 本寺は弘仁5年(815年)弘法大師の開基にかかり、摩盧山正寿院焼山寺と言う。本堂に虚空蔵菩薩を祀り、大師堂には弘法大師の御像が安置されている。
 その昔、この山一帯は毒蛇の棲む魔城で、しばしば大雨を降らし、或は大風を起こし、また諸作物を害するなど災いをなし、附近の人民を虐げていた。
 大師は、かかる魔境をこそ仏法鎮護の霊域とすべきであると山を登られた。大師の開創を恐れた魔性共は全山を火焔としして聖者の行を阻み妨げたが、大師は恐れず印を契んで敢然と登られるや、不思議と劫火は見る見る消え衰え、大師の法力により天変地異あとを絶ち、楽土と甦った。
 そこで山中に一宇を建立して、焼け山の寺と名づけ給うた。故に山号を摩盧山と呼んだ。摩盧とは梵語で水輪の意、すなわち火伏せに因んだ山号である。
 今も尚、山上に毒蛇を封じたと称せられる岩窟があり、その岩頭に三面大黒天を刻んで建立したと伝えられ、三面大黒天は現在、寺内に安置され、日本三体の一つとして其の霊験は遠近に聞こえている。
 境内には国主蜂須賀公より寄進せられたる霊鐘あり。また、正中2年(1325年)には、後醍醐天皇御宇霊跡として、清浄の地たること上聞に達し、国家鎮護のため勅願の御綸旨を下され、今、寺宝として保存されている。
 これより1km登れば海抜930mの奥の院に至る。その附近には、護摩壇、求聞持の窟、せり割り岩、閼伽の水、五葉の丸、杖立の峰など、大師ゆかりの遺跡、名勝が数多くある。
     昭和63年11月10日 謹写
       奉納 鴨島町 久米衛

 弘法大師様です

 手水舎です

 鐘楼です

 鐘の由来説明版です
   鐘の由来
 本寺の鐘は松平阿波の守忠英朝臣(蜂須賀二代目藩主)大壇主となられ、慶安2年(1649年)2月23日(今より330余年前)寄進されたものである。
 当時、蜂須賀公は二つの鐘を造り、一つを本寺に、いま一つを徳島市内の某寺に寄進されたそうである。
 本寺の鐘は撞けば殷々たる響きは徳島市内にまで届いたという。あと一つの市内のものは少しも良い音を出さず、公は人を使わして本寺の鐘と替えたいと申されたという。然し鐘は「いなーん・いなーん」と鳴って、それは果たされなかったという。
 昭和16年大東亜戦争に供出の命下り青年多数によって山麓まで運ばれ、其処より馬車に積んだが、馬俄かに腹痛を訴え、もだえ苦しんだ。馬子は遂に鐘を運ぶことを断念して他の器物を運んだ。
 かくして戦争は終わり、県文化財として指定を受け、別の場所に保存し、今は二代目の鐘が響いている。

 本堂前に宝塔です

 北側から

 本堂左手の三面大黒天堂です

 本堂です

 右手に大師堂です
 
 右端には「十二番神社」です

 十二神社本殿です

 長く成ってしまいますので、続きとさせて頂いて、次回は境内の杉を2本見て行きます


 
 
 2024・6・8・15・50
 
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徳島県神山町、下分地中「杖杉庵(じょうしんあん)のイチョウ」です!!

2024-07-12 06:44:19 | 巨樹・大木
 下分地中地区は、神山町役場の北西約5kmのところ

 神山町役場の北側の道路を東へ出て、約200mの信号を左(北西)へ、国道439号線です

 約1.1kmの交差点に「12番焼山寺⇒」の案内板に従って右(北)へ、県道43号線チェリーロードです

 間も無く「鮎喰川」を渡って「左右内谷川」に沿うように、坂道を上って行きます

 約3.5kmで「⇐12番勝山寺5km」の標識に従って左(西)へ

 約2.2kmで右手にイチョウの大木です

 西側の広場に車を止めさせて頂きました

 本堂西側に「弘法大師出現所 右衛門三郎霊跡」の像です

 説明版です
   衛門三郎霊跡
     杖杉庵縁起
 伊豫の国、浮穴郡荏原の荘の長者衛門三郎は財宝倉にみち、勢近国の稀な豪族であった。
 それでいて強欲非道な鬼畜のようなこの長者は、貧しい者を虐げ召使共を牛馬の如くこき使って栄華の夢に酔いしれていた。
 雪模様の寒いある日、その門前に一人の旅僧が訪れた。乞食のようなみすぼらしい旅僧は、一椀の食物を乞うた。
 下僕の知らせに衛門三郎はうるさげに「乞食にやるものはない追い払え」と言い捨てた。そのあくる日も次の日も訪れた。
 衛門三郎は、怒気満面いきなり旅僧の捧げる鉄鉢を引っ掴むや大地に叩きつけたと見るや、鉄鉢は八つ花弁の如く四辺へと飛び散った。
 唖然と棒立ちになった衛門三郎が、ふと我に返った時なは旅僧は煙の如く消え失せていた。
 長者には8人の子どもがあった。其翌日長男が風に散る木の葉の如くこときれた。その翌日には次子が亡くなり、8日の間に8人の子供が亡くなった。
 鬼神も恐れぬ衛門三郎も恩愛の情に、悲嘆にくれ初めて、これはおのが悪業の報いかと身に迫る思いを感じた。
 空海上人とか申されるお方が、四国八十八ヶ所をお開きになる為此の島を遍歴なされているとか、我が無礼を働いたあの御坊がその上人と思われる。
 過ぎし日の御無礼をお詫び申さねば相すまぬと発心し、ざんげの長者は財宝を金にかえ妻に別れ、住みなれた舘を後に野に山に寝、四国八十八ヶ所の霊場を大師を尋ねて遍路の旅をつづけた。
 春風秋雨行けど廻れど大師の御すがたに会うことが出来なかった。遂に霊場を巡ること二十度、会えぬ大師を慕いつづけた。
 二十一度逆の途を取って此の所までたどりついた。疲れた足をよろぼいつつ木陰に立寄り、背に負うた黄金の袋を下ろしてみると、何とした事ぞ一塊の石となっていた。
 いよいよ驚き、今一歩も立上がる気力もなくうち倒れている折しも大師の御姿が現われ給い、やさしく「やよ 旅の巡礼 そなたは過ぎし日わが鉢を打ち砕いた長者にあらずや」との御声「われは空海ついぞやの旅僧なり」「ああ上人さまお許しなされませ、お許しなされまし」と伏し拝みざんげの涙はらはらと手を合わせ、大悲にすがる長者は今こそ、悪業深さ無明の闇から光明世界へ還らんとする姿であった。
 「そなたの悪心はすでに消え善心に立ち。この世の果報はすでに尽きたり、来世の果報は望に叶うであろう」と仰せられ、衛門三郎は大慈大悲の掌に救われ、来世は一国の国司に生まれたいと、願った。
 大師は其心を憐み、小石を其左手に握らせ、必ず一国の主に生まれよと願い給い、衛門三郎はにっこと微笑みをのこし敢え無くなった。
 其の日は天長8年(1197)10月20日と伝えられる。大師は衛門三郎のなきがらを埋め、彼の形見の遍路の杉の杖を建て墓標とされた。其の杖より葉を生し大杉となった、故に此の庵を杖杉庵と呼ばれ、今尚大師の遺跡として残っている。
 此杉は天保年間(1831~1845)焼失した。その頃京都御室から「光明院四行八蓮大居士」の戒名が贈られ、四国遍路の元祖として今も此の地に祀られている。
  焼山寺 保勝会
    復刻 平成8年1月吉日

 「四国霊験場 杖杉庵」寺号標です

 石段を上がると正面に杖杉庵の本堂です

 石仏です

 「光明院四行八蓮大居士」供養塔です

 「四或土遍禮元祖衛門三郎之碑」という石柱です

 スギの大木です

 南東側から見上げました、目通り幹囲約3m(目測)の大木です

 イチョウを東側から

 北側から、目通り幹囲5.3mの巨木です

 西側の広場から見ました

 では、四国八十八ヶ所第12番焼山寺へ行きましょう
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