十文字町仁井田屋布西地区は、横手市役所の南南西約12kmのところ
(十文字地域局の南約1.5kmのところ)
国道13号横手湯沢道路を南へ、十文字インターチェンジを下ります
十文字IC入口信号を右(南西)へ国道13号線です、佐賀会沖田信号を左(南東)へ国道342号線です
JR奥羽本線を陸橋を越えて最初の信号を右(南西)へ入ります、間も無く右手に新山神社が南向きに鎮座します
鳥居の西側に
駐車スペースが有りますので利用させて頂きました
参道入口です
郷社 新山神社です
狛犬です
三角形の水盤です
こちらは星形型でしょうか
境内右手のケヤキです
石仏が並んでいます
出羽三山などの石塔が並びます
拝殿です
本殿です
社殿右手のケヤキです
社殿左手には境内社とケヤキが並びます
十文字町の古木「新山神社のケヤキ群」の標柱です
目的のケヤキです
東側から、目通り幹囲6.5mの巨木です
北東側から
稲荷社の様です
もう一つの境内社です
仁井田年代碑です
年号 西暦 事象
仁和年間(855~859) 京都武人 八萩大炊之助義基が出羽湯殿山で修行、後当地に居住開発した(八萩山新山宮縁起)
康保2年(965)仁井田湯殿新山大権現を字朴木に創建(八萩山新山宮縁起)
元弘3年(1333)南北朝の頃、南朝の六人衆が明沢を経てこの地に移住
元中9年(1392)
応永年間(1394~1428)仁井田の山内家が傷薬を世に広めた
天文年間(1532~55)仁井田笠の製作が始まった
享保15年(1730)仁井田の家数49軒(六郡々邑記)
寛政2年(1790)新山神社現在地に遷宮、当時の肝煎は石川伊右衛門でその後も代々勤めた
寛政10年(1798)十王堂和尚に永平寺から涅槃号授与
文政年間(1818~30)仁井田家数50軒、人員248人、馬数19疋(雪の出羽路)
天保7年(1836)凶作対策として五升備米制が布かれ、郷倉設置の基となった
天保13年(1842)当時、長百姓は皆川右衛門、その後代々村役を勤めた
明治12年(1879)十王堂に学校を設けた(四道学校の分校)
明治27・28年(1895~96)日清戦争従軍者1人
明治38・39年(1904~05)日露戦争従軍者10人
大正9・10年(1920~21)シベリア出兵従軍者2人
昭和2年(1927)仁井田会館を建てた
昭和6年(1931)満州事変従軍者2人
昭和12~16年(1937~41)日華事変従軍者37人(戦没者:石川吉治・皆川徳次郎)
昭和15年(1940)仁井田新山神、社指定村社に昇格
昭和16~20年(1941~45)太平洋戦争従軍者63人(戦没者:三浦廣・石川寅吉・若皆三郎・三浦清治・石川栄之助・石川正太郎・石川孝三・佐々木隆太郎・石川喜助・三浦金治・和泉忠五郎・石川佐太郎)
昭和23年(1948)農地改革により仁井田小作地五十町歩が自作地となった
昭和39年(1964)仁井田番楽が秋田県無形文化財に指定された
昭和43年(1968)仁井田西線新道開通
昭和45年(1970)米の生産調整が行われ、翌年減反13㌶、仁井田家数60軒、人員318人、田地75㌶、畑地6㌶
昭和46年(1971)新山神社創建一千年記念として仁井田年代碑建立
境内西側のケヤキです
では、次へ行きましょう