
▲ミュージックスターマイン@やつしろ全国花火競技大会
今年は煙とかレンズとか、いろいろ全敗である。
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本来なら昨日の日記に書くべき内容である。
毎度のことで恐縮だが、昨日は新潟県中越大震災から7年という日である。今年は福岡空港で「その時」を迎えた。
小千谷市では合同慰霊祭などが開催されたそうである。
7年ともなればもうその時の状況を探すのは難しいと思うのかもしれない。しかし、そうではない。震災メモリアルとして、被害そのままに残しているところがある。
ひとつが、妙見のがけ崩れ現場。親子が乗った車が巻き込まれ、4日後に男の子だけが救出されたという、あの現場である。あそこでは「ごく一部」を除いて崩れた岩や土砂はそのままあそこに残されている。
ごく一部というのは、元々県道が通っていた個所である。この県道は、私のようは小千谷東部に住まいのある人間にとっては、長岡へ行くメインルートである。路線バスもここを通る。
もともとは国道17号線であったが、バイパス造成によって県道に格下げされただけで、古くから地元の人々には欠かせない道であった。当初は被害のおおきさに廃道も検討されたらしいが、無事復活してくれてうれしい。
で、この県道を通すところのみ、土砂を掘り下げて復旧させた。2年半かかった。すなわちそこは土砂の脇をすり抜ける道となっている。
それ以外の土砂は今も信濃川に向かって投げだされている。多少草木は生えてきているが、対岸から見えるそれはやはり異様だ。
昨日、そこに震災メモリアルパークがオープンした。
この震災メモリアルパークはこのほかにも旧山古志村の木籠地区(稼働閉塞に伴う上流の土砂流入による集落の埋没)、旧川口村の木沢地区(GPSにより確定された震央の棚田)にも設置されている。
さらに、震災メモリアル拠点も3か所オープン。
長岡市はIT機器を用いた、被害の記録。小千谷市は当時の避難生活を時系列に再現した記録。旧川口町は、生活再建に欠かせなかった地域の人々のつながりの記録をテーマに、あの地震を忘れない、語り継いでいくことを目的とした施設を作った。
詳しくはこちら→http://c-marugoto.jp/index.html
このHP、施設オープン前からのものなので、あまりわかりやすいものではないのだが(オープン後は新しいバージョンにしてほしいものである)、一応公式なので…。
3月以降、大震災といえば、それは東日本大震災を差すようになった。
この新潟の地震ですら、ここまでにするのに7年かかった。このたびの地震がここまで到達するのに果たして何年かかるのだろうか…。
ちなみに個人的なことであるが、実家のそばにあるもう一つの家「生家」はあの地震の際に飛びあがって、基礎から外れてでもそのまま7年も建っていた。この10月、その生家はとうとう取り壊された。
これで我が家も震災関係はひと段落である。