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三鉄ゴトゴト(南リアス線)

2020-11-05 23:35:00 | お出かけ

▲大船渡サンアンドレス公園の展望台より大船渡魚市場方面を望む。
 この命名にはかつての伊達の殿様が絡んでいたらしい。東日本大震災の津波にて一部破損し、修復された。

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 三陸花火大会の翌朝は、6時台から朝飯をかっ込み、9時前にチェックアウト。大きな荷物は黒猫さんにおまかせして、リュックと三脚(サイズ外で別料金かかるから自力で持って帰ることにした)を肩にかけて出発。
 
 大船渡魚市場へと向かう。その途中でサンアンドレス公園の展望台をみつける。煙とバカは…ということで上から港を望んだ。港町とはいえ、度重なる津波被害で、防潮堤は高くなり、どこからでも海が見えるわけではない。
 前夜泊まっていたホテル付近は津波で大きな被害が出たエリア。再開発で商業施設は作られたが、この辺りは標高が低いので人が住むことは禁じられているらしい。
 前日車で移動中に、1軒だけ津波被害が残る家がそのまま残されていた。1階は骨組みだけで、2階には大きな穴が開いていた。おそらく権利関係が複雑な建物なんだろう。権利関係が解決すれば取り壊されるのだろうが、これはこのまま保存というのも考えてもいいかもしれないと思いつつ、津波で被害に遭った方には見たくもないものかもしれないんだよなぁという思いが入り混じる。
 災害遺構というものは、なかなか難しい存在だ。
 

 さて、大船渡魚市場についたのはいいが、どうにも開いていない。あれ、水曜休館じゃなかったっけ!? って思ったがどこを見ても入り口が開いていない。すでに開館時間の9時を過ぎているのだが…。
 魚市場の建物にも展望台があり、そこから港を一望しようと思ったのだがどうも入れないらしい。
 あとでネットで調べるとどうやら休業日が変わったみたいだった。古いデータを見てしまったのかもしれない。
 仕方ない、じゃぁ、盛の駅に向かうかと最寄りのBRT駅大船渡魚市場駅に行こうとしたが、なんと、駅への道が工事中で進入禁止。ちょっと待て! 迂回路めっちゃ遠回りだぞ! これ、無理に坂道を上るより、もう一駅先の駅へ向かった方が早くないか!?ということで、ホテル方向へ速足で戻る。ひとつ先のBRT大船渡駅に時刻前に到着。無事にBRTに乗車。この界隈、盛駅まで徒歩で30分ぐらいかかるのよね。

 BRT終点盛駅で三鉄の切符を買ってホームへ。
 三鉄南リアス線の始発駅である。ここから宮古行きの電車が出るが、まずは釜石まで。宮古は一度行ったので、今回は釜石で途中下車する。
 盛で乗り込み、海が見える右側のボックス席に座り、ほどなく出発。座席の8割ほどは埋まっている感じ。
 大船渡の工場地帯をかすめて、山中の小さめなトンネルに入る。そのトンネルの切れ目に時折海を眺めながら北上する。
 リアス式地形の根元を走るから、半島の付け根はトンネル、湾が食い込んできたところは海が見えるという感じの路線だ。



▲綾里駅の忘れ柿
 忘れ柿、前日の福島あたりでも大量に見たが、三陸にもリアル忘れ柿が山ほどあったよ。


▲恋し浜駅にはホタテの絵馬(←恋愛のパワースポットらしいよ)と鉄ダンイケメンが駅舎に…。


▲恋し浜駅からの海の眺め


▲甫嶺駅付近

 陸前高田もそうだったけれど、旧来の防潮堤より高さを出し、津波に押し切られないよう内陸側に三角形の土台を築くというのが三陸一帯の工事基準のようだ。
 確かに、明治大津波を参考に作った防潮堤は、東日本大震災というより大きなパワーの津波にのまれてしまったから、さらに防備力を増すしかないのだろう。
 その結果、かつてそこにあった集落からは海が見えなくなり、防潮堤のこちら側は万が一それが破れた場合を考えて住宅は築かれなくなった。明治大津波の教訓を生かし、高台に築かれた集落は無事なところが多い。
 そして東日本大震災の「津波浸水域はここまで」という標識もいくつかの町で車窓から確認できた


▲三陸駅付近


▲吉浜駅付近
 この辺りは津波が届かない高台。


▲唐丹辺りからの釜石大観音。駅からはちょっと離れていてバス便もなさそうなので見られないなぁと思っていたから、車窓から予想外にバックショットが拝めてよかった。

 釜石でいったん下車。
 三鉄は宮古行きなので、そのまま乗って行ってもいいのだが、都市間バスの接続の問題でここで時間調整。
 なお、駅で前夜釜石泊だった人とすれ違うw



▲釜石の紅葉

 紅葉斜面のすぐそばの釜石市立郷土博物館を見学。
 鉄の街の歴史も釜石の歴史の中ではホンの一時代。
 縄文時代からここに人は住み、生活を紡いでいった。捕鯨の町でもあった。近世では鉄の町として栄え、太平洋戦争時は、海からの艦砲射撃が複数回行われたということを初めて知る。
 遠野からもそれほど離れてないためか、「おしらさま」などの文化も残っていたようだ。それらが飾られていた囲炉裏の間には、クマの皮が敷かれ、新潟でいう「つぐら」(現在のベビーベッドみたいなもの)には赤ちゃんの代わりに某キューPが入っていて、そのコントラストに吹いた。
 明治大津波も東日本大震災も記録が残されており、少しだけ閲覧させてもらった。


 博物館を出て、駅前の旧橋上市場が移転したサンフィシュにて、塩筋子をゲット! 東京だと醤油漬けが多いんだけれど、醤油の雑味があっていまいちなのよね。「筋子は塩漬け」をデフォルトにして欲しい。
 また、パッケージがしっかりしている。ラップでぴっちり筋子をサンドして、筋子がパッケージ内の空気で乾燥しないようになっていた。この筋子の扱いも全国レベルでベーシックにしてほしい限りだ。

 再び三鉄に乗り込み、宮古へと北上する。


▲両石駅手前


▲大槌では防潮堤の後方で子供たちがサッカーをしていた


▲浪板海岸


▲浪板海岸


▲山田町手前


▲津軽石手前

 震災から9年経とうとしているが、まだ防潮堤の整備をしているところが多い。人々は住める地に家を建て、新しい生活に入っている。多くの地で海の近くの集落は無くなった感である。
 防潮堤の工事にはあと何年かかるのだろう。これらが完成した暁には、元の生活が戻ってくるわけではないだろう。その後の各集落の生存戦略が気になるところではあった。

 三鉄は、南リアス線の最北地、宮古へ到着した。この駅から先は三鉄の北リアス線になる。そちらは数年前に乗り鉄したので、今回はここまで。
 宮古の駅前も数年前と少し変化した。駅前の謎鮨を売るスーパーがなくなっていた。

 ぷらぷら歩いて都市間バス乗り場へ行ったら、なんと長蛇の列! え、これみんな盛岡行きのバスの乗客!? 以前夏に来た時なんて7人ぐらいしか乗ってなかったぞ!? え、これ乗れるのかな、自分…。
 とはいえ、これに乗らないと新幹線に接続できないので、乗車券を買って列の後ろに並ぶ。定員に3名足りない状態で密な都市間バスが発車。
 途中のバス停で(都市間バスではあるが、日常のバスも兼ねている)3名乗り込んできて、4名目からは乗車拒否(乗せられない)事態に…。
 
 なお、車窓を彩る紅葉は実に美しかった。バスで移動しているだけで紅葉狩りができた。

 紅葉渋滞でも発生したら困るなぁと思ったが、さすが日本一のローカル路線山田線に並行する国道106号。工事渋滞以外はそういった心配は皆無で。ほぼ定刻に盛岡に到着した。
 盛岡駅で地域共通券を使って稲庭うどんを買い(盛岡でも堂々と売っているの知ってた)、海鮮丼を入手し、さらに紅玉リンゴ(←リンゴで一番好き)をゲットして、新幹線に乗り込む。

 今日1日かけて移動してきた距離を、はやぶさちゃんは、わずか20分チョットで走り抜けた。東北への郷愁を振り切るように。


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