2015年1月15日、お参りしました。拝観料は600円です。
パンフレットより『正式には蓮華王院といい、長寛2(1164)年鳥辺山麓(現・阿弥陀ケ峯)の後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進した。約80年後に焼失したが、すぐに復興に着手し文永3(1266)年に再建された。その後、室町・桃山・江戸そして昭和と4度の大修理により700余年間保存されています。長いお堂は和様の入母屋・本瓦葺きの「総檜造り」で約120メートルあります。本堂内陣の柱間が33あることから三十三間堂という名で知られています。中央の巨像(中尊)を中心に左右に各500体(重要文化財)、合計1001体がご本尊です。中尊(国宝)は、大仏師湛慶(運慶の長男)82歳の時の造像で鎌倉期(慶長6年)の名作と評価されています。正しくは「十一面千手千眼観世音」といい、檜材の「寄木造り」で、頭上の11の顔と40種の手に表現されています。等身立像の中、124体はお堂創建時の平安期のもので、他の800余体は鎌倉期の再建の折に約16年をかけて復興されました。』中尊のほか、国宝の雷神と風神や観音28部衆の仏像も見事ですね。端から端まで一杯の観音様に合掌。
京都市東山区三十三間堂廻町657
map
拝観受付
本堂(国宝)
日本一長い木造建築物です。縁側の南から北に矢を射通す「通し矢」の競技で知られています。
鐘楼
廻廊
東大門
太閤塀(重要文化財)
夜鳴泉
お堂創建の翌年(1165)6月7日、ひとりの堂僧が発見したという霊泉で「古今著聞集」には「いつも冷たく美味しく飲んでもお腹を痛めることのない"極楽井"でどんなに汲んでも尽きず、汲まない時も余ることのない不思議な泉だ」と記されています。
石碑
法然塔
久勢大明神
南大門(重要文化財)
建物を出て東の通りの南にあります。桃山時代、切妻造、本瓦葺、三間一戸の八脚門で、虹梁の刻銘により豊臣秀頼が慶長5年に新築したものと推測されています。
パンフレットより『正式には蓮華王院といい、長寛2(1164)年鳥辺山麓(現・阿弥陀ケ峯)の後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進した。約80年後に焼失したが、すぐに復興に着手し文永3(1266)年に再建された。その後、室町・桃山・江戸そして昭和と4度の大修理により700余年間保存されています。長いお堂は和様の入母屋・本瓦葺きの「総檜造り」で約120メートルあります。本堂内陣の柱間が33あることから三十三間堂という名で知られています。中央の巨像(中尊)を中心に左右に各500体(重要文化財)、合計1001体がご本尊です。中尊(国宝)は、大仏師湛慶(運慶の長男)82歳の時の造像で鎌倉期(慶長6年)の名作と評価されています。正しくは「十一面千手千眼観世音」といい、檜材の「寄木造り」で、頭上の11の顔と40種の手に表現されています。等身立像の中、124体はお堂創建時の平安期のもので、他の800余体は鎌倉期の再建の折に約16年をかけて復興されました。』中尊のほか、国宝の雷神と風神や観音28部衆の仏像も見事ですね。端から端まで一杯の観音様に合掌。
京都市東山区三十三間堂廻町657
map
拝観受付
本堂(国宝)
日本一長い木造建築物です。縁側の南から北に矢を射通す「通し矢」の競技で知られています。
鐘楼
廻廊
東大門
太閤塀(重要文化財)
夜鳴泉
お堂創建の翌年(1165)6月7日、ひとりの堂僧が発見したという霊泉で「古今著聞集」には「いつも冷たく美味しく飲んでもお腹を痛めることのない"極楽井"でどんなに汲んでも尽きず、汲まない時も余ることのない不思議な泉だ」と記されています。
石碑
法然塔
久勢大明神
南大門(重要文化財)
建物を出て東の通りの南にあります。桃山時代、切妻造、本瓦葺、三間一戸の八脚門で、虹梁の刻銘により豊臣秀頼が慶長5年に新築したものと推測されています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます