中国の北派武術で三大内家拳(太極拳・八卦掌)の一つに数えられて、最強と呼ぶ人もいる流派に形意拳があります。
形意拳を説明するときによく言われるが、形は単純、威力は絶大といわれる。前に進み、相手が避けても、構わず突き進んで倒してしまんです。
形意拳はシンプルな拳法で、独特の開門式に三体式がある。その時の前の手は天を指し、後ろの手は自分を指します。
そして基本になる技が五本。五行拳と呼ばれ、崩拳・劈拳・鑚拳・炮拳・横拳の五つです。
それを基本にして、十二形拳に対応する動物は龍・虎・猴・馬・鼈・鶏・燕・蛇・蛇・鳥台・鷹・熊になります。この辺は五獣の拳に似ているね。
伝説上の伝承者?、姫際可師が少林寺で修行したとの伝説があるのであるいは関係があるのかも知れないですね。
起源は中国の山西省に源を発すると言われています。
伝説では宋代の最後に岳飛という武将が形意拳を伝えたといわれています。
この岳飛は槍術に優れていたといい、形意拳の動きの多くが槍術と共通していることからもこの武将と伝説が結び付けられたのでしょう。
形意拳の史実上の創始者?は清朝末期に人々から、その超絶的な技量を「神拳李」と言われた李 洛能とされている。その中の一人に郭 雲深師(かく うんしん、推定1820年 - 1901年ごろ。諱は峪生、字を雲深。
河北省深県馬荘の人。一説によれば、貧しい鋳物鍛冶の子として生まれたといい、若年から好んで拳術を学んだが、数年学んだものの、何ら得るところが無かったという。 後に李能然に遭遇し、語り合ったところ、形意拳は形式が極めて簡素ながら、その道の奥深いことを知り、郭雲深は形意拳に憧れをいだくようになったという。しかし、郭 雲深が性格が粗暴であったのを嫌い入門を拒んだが 、郭雲深に真誠の心があると見て、その門下に収め、自ら親しく教授することとなる。 郭雲深は李能然の教えを受けても自ら悟ることがあり、いよいよ練功に励みて、数十年の間、朝夕欠かさず修練を続けたと言います。
李能然が郭雲深に教えた手法とは、たとえば二人で対練した時など、一瞬の間に二丈の外に投げ飛ばされてしまう、だが、そこには苦痛は無く、あたかも手を軽々と一振りするだけかのようであるのに、身体が浮かされてしまうのである。 その後郭雲深は何を学んでもその極意に達しないものは無かったといわれ、南北各地の同道の士と交流すること広く、体験することも多かったという。 郭雲深の練った道理とは、つまるところ腹は実を極め、心は虚を極めることにあったと知られ、また兵書を好んで熟読し、奇門遁行にすぐれていたとされています。
郭雲深の生涯は波瀾と数多くの伝説に彩られ、敵に半歩進んで五行拳の崩拳の一打を発すると敵皆倒れた為、人々は「半歩崩郭」、「半歩崩拳、あまねく天下を打つ。」と賞賛を惜しまなかったという。 また彼の最も有名な俗説に、試合で相手を誤って打ち殺した故に、殺人の罪により監獄に収監され、そこで手枷足枷を付けられたまま虎形拳を練り、虎撲子の一手を編み出したという逸話があるが、これは門内の人間からは全くの誤りであると指摘されている。 郭雲深は確かに人を殺め、3年間を獄で過ごしてはいるが、これは義憤に駆られた郭雲深が、ある土地で民衆を苦しめる匪賊の首領の館に害意をもって招かれ、彼にピストルで襲われた際に、愛用の月牙剣(鹿角刀)をもってこれを殺傷して、人々の賞賛を浴びたからであり、また獄での郭雲深は、彼に同情的な官警の者たちの配慮と、彼の義挙に感銘を受けた人々からの多額な献金により、獄での3年間を何不自由なく過ごしたという。後に故郷に隠棲し81歳でその生涯を終えた。
うーん、沢山あって書ききれない。松田隆智先生の図説、中国拳法史を見てね。