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戚継光について

2021-01-11 06:38:27 | 漢詩・古典・エトセトラ

戚継光

              
                    戚 継光

  戚 継光(せき けいこう)、嘉靖7年10月1日(西暦で1528年11月12日) - 万暦15年12月8日(西暦で1588年1月2日)は、明の時代の武将です。倭寇及びモンゴルと戦ってともに戦果を挙げたことからその名を知られる。竜行剣という剣法の開祖とも伝えられる。

  • 紀效新書(きこうしんしょ)は、戚 継光が著した兵書『紀效新書』本文十八巻の一つである「拳経」は宗太祖三十二勢長拳と呼ばれる武術を図版で解説している。太極拳には同じ技法(単鞭など)が見られる。また、戚継光は倭寇との戦いで得た日本の陰流剣術の目録を研究し『辛酉刀法』を著している。

    余談:漫画家、今は亡き横山光輝氏「戦国獅子伝」の中の酔拳の朱豹が竜光剣の使い手として出ています。↞架空の話ね。

歴戦の勇将ながら大変な恐妻家であったとされ、軍律に背いた息子を処刑したことに怒った夫人から生涯妾を持たない事を誓わされた。

その後誓いを破り2人の妾と密通し、それぞれ隠し子を1人ずつもうけたが夫人に露見してしまう。激怒した夫人から妾と子供を殺すよう迫られた戚継光は、1日だけ猶予をもらい部下であった夫人の弟を呼びだし「妾たちを許し、子供を養子として引き取るよう明日までに姉を説得しろ。さもなくば、お前もお前の姉も、お前の一族も全員殺したうえ自分は官職を辞し世捨て人になる」と脅した。

弟は泣きながら夫人を説得したため、夫人は仕方なく隠し子を引き取り、母親である妾2人には杖罰五十を加え追放するに止めた。これを聞いた世間の人々は、戚継光の深謀を称えると共に、彼の恐妻家ぶりを笑った。数年後に夫人が病死すると妾たちを家に呼び寄せ、子供達と一緒に生活させている。

倭寇の持つ鋭い日本刀対策として、狼筅という枝葉の付いた竹製の槍を開発し、それを装備した兵を含む「鴛鴦陣」と呼ばれる10人の分隊による集団戦法を編み出した。この戦法により倭寇戦では多大な戦果を挙げた。此処で倭寇を簡単に説明すると前期と後期があります。

   

戚 継光を題材にしたDVD「ゴッドオブウォー」趙文卓(チウマンチェク)(出演), サモハンキンポー(出演), もあります。趙文卓と言えば「ワンスアポンチャイナ」でジェットリーの代役で出て有名になりました。

[前期倭寇]

1370年代の前期倭寇の行動範囲は朝鮮北部沿岸にも及び南部では内陸深くまで侵入するようになった。倭寇の被害を中心的に受けていた高麗ではには崔瑩(さいえい)が鴻山で、荒山では、李成桂、鎮浦では、崔茂宣。南海島観音浦では鄭地らが、倭寇軍に大打撃を与え、1389年のの朴葳(ぼくい)による対馬国侵攻では、倭寇船300余隻を撃破し、捕虜を救出し、その後、町を焼き討ちして帰還した。これ以降倭寇の侵入は激減する。

[後期倭寇]

1370年から1390年初めに倭寇の襲撃が激化したのは新たに高麗の賎民階級が加わったからだとし、高麗を襲った倭寇の構成員を日本人を主力として若干の高麗の賤民を含むとした。また、田中はのちに、倭寇の構成を日本人と朝鮮人の連合か、または朝鮮人のみであったともし、さらに、高麗(李朝)にとって倭寇は外患であると同時に内憂でもあり、李氏朝鮮が高麗から引き続いて倭寇が外患であることを強調することで倭寇が抱える内憂の性格を隠蔽し、それを梃子として国家体制を確立したとも述べている。

[明に抵抗する勢力による扇動説]

「明が興り、太祖高皇帝(朱元璋)が即位し、方国珍・張士誠らがあい継いで誅せられると、地方の有力者で明に服さぬ者たちが日本に亡命し、日本の島民を寄せ集めて、しばしば山東の海岸地帯の州県に侵入した」。藤経光誘殺未遂の報復説

「高麗史」によれば、1375年の藤 経光誘殺未遂によって倭寇が激怒し、高麗住民の無差別殺戮に出るようになったと記している

戚 継光は1528年にいますのでもっと後の話になりますね。

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