針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

趙高

2024-03-30 21:29:37 | 漢詩・古典・エトセトラ

趙高

趙 高(ちょう こう)、(? - 紀元前207年)は、秦の政治家。弟に趙成。趙高は隣国の趙の遠縁の公族として生まれるも、幼少時に母親が罪を犯した。この時、趙高が宮刑(腐刑)に処されており、のち秦に宦官として仕えたという説が知られるが、これには疑問が残されています。実際に趙高が始皇帝にいつから仕えたのかは、『史記』秦始皇本紀に一切記されておらず、不明である。勤勉で法律に詳しいことから、始皇帝の末子の胡亥のお守役を拝命した。その後は晩年期の始皇帝にその才能を寵愛されることになり、始皇帝の身辺の雑務を全てこなした。これが後になって秦を滅ぼす原因になったのを誰として予想出来なかったですね。

皇帝の操り手

始皇帝の五度目の行幸にも参加するが、始皇帝が行幸中に病死すると、丞相の李斯を強引に抱き込み、その遺言を書き換えて、太子の扶蘇を自決に追い詰め、末子の胡亥を即位させる。沙丘の変と言います。

この時、遺言には扶蘇が葬儀を取り仕切るよう記されていた。すなわち実質上の後継指名である。これもあり、即位することを胡亥は躊躇ったが、その説得の際に趙高が放った口癖の決まり文句

断じて行えば鬼神もこれを避く」である。

そして、自ら郎中令(九卿の一つ)。宮門をつかさどる)に就任し、胡亥を丸め込み、宮中に籠らせて贅沢三昧の生活をさせ、自らは代わって政務を取り仕切って実権を握った。胡亥の傀儡(かいらい)ぶりは著しく、丞相李斯ですら趙高の仲介なくしては胡亥に奏上も適わなかった。

政策は基本的には始皇帝の方針を引き継いだが、皇帝の権威、即ち自らの権威を高めることに腐心し、阿房宮の大規模な増築を進め、人民に過重な労役を課す。

また、蒙恬(もうてん)と秦の公子将閭(しょうりょ)や2人の弟たち・公子高など有力者や敵対者を悉く冤罪で処刑した。これにより悪臣などが増え、政治に対する不平不満は増大、始皇帝在位時は豊富であった人材も枯渇することとなり、恐怖政治を敷いたことと合わせて趙高は大いに人民から恨みを買うことになった。

秦帝国の滅亡と趙高の最期

天下に満ちた怨嗟は、陳勝・呉広の乱の挙兵をきっかけに、枯野へ火を放ったように一気に全土での反乱として現れた。事態を憂慮し、対策と改革が必要と考えた李斯と、現状保持に拘る趙高は対立を深め、ついに趙高は胡亥に讒言して、李斯を腰斬で処刑させ、自分が後任の丞相となった。その間にも反乱は広がり、主力軍でもある名将,章邯(しょうかん)が項羽に敗れた際も、趙高は増援を送るどころか敗戦の責任をなすりつけようとしたため、章邯は項羽率いる楚に20万の兵と共に降伏し、秦帝国の崩壊は決定的となった。しかし、項羽の群には兵糧が乏しく結果、二十余万の兵を谷底に駐屯させて一気に穴埋めにしてしまった。以前,章邯も同じような事をしたのでその報いを受けてしまったんですね。

その間も胡亥は何も知らされていなかったが、都である咸陽(かんよう)のすぐ近くにまで劉邦の軍勢が迫ると趙高はさすがに隠し切れぬと思い、胡亥を弑する計画を練った。この際に群臣が自分のいうことを聞くかどうかで、ある事を試みた。

趙高が宮中に「珍しい馬がおります」と鹿を連れてきた。 胡亥は「丞相はどうかしたのか、これは鹿ではないか」と言ったが、「これは馬です。君らはどう思うか?」と黙り込む群臣に聞いた。趙高の権勢を恐れる者は馬と言い、屈しない者は鹿と言った。趙高はその場はちょっとした余興ということで納めたが、後日、鹿だと答えた官吏を、軒並み捕らえて処刑した。

このエピソードが「鹿」の由来の一説である故事成語『指鹿為馬・鹿を指して馬となす』である。

二世3年(紀元前207年)8月、趙高は反対者を粛清したのち、謀反して胡亥を弑逆した。これを望夷宮の変と言います。趙高は胡亥の死体から玉璽を奪って身に帯びて、秦の帝位(もしくは王位)につこうとしたが、側近や宮中百官は趙高に従わなかった。趙高は殿上に登ろうとしたが、宮殿は三度も崩壊しようとした。趙高は天が自分に味方せず、自分が支配者になることを秦の群臣が許さないことを理解した。この時、劉邦軍と密かに内通を画策していたが、劉邦からは全く相手にされていなかった。どこまで汚い奴なんだ。

同年9月、胡亥の後継として、人望の厚い子嬰(しえい)に玉璽を授けて秦王として即位させ、全てを胡亥のせいにすることで自身への非難をかわそうとする。だが、趙高は彼を憎悪する子嬰と韓談(かんだん)らによって、子嬰の屋敷に呼び出されて殺害され、一族も皆殺しにされた。

趙高の死より、秦国内は大いに士気が高まったが、時既に遅く、既に関中へ劉邦軍が入っており、咸陽の目前に迫っていた。子嬰は観念して降伏し、ついに秦は滅亡した。始皇帝も全国統一を成し遂げたのは良かったが、一番かわいがっていた胡亥が大馬鹿ときていて趙高は自分の懐ばかり肥やしてばかり。こんなんじゃ滅亡は最初から決まっていたようなものだ。

始皇帝が苦労して築き上げた秦の国家でしたが、皮肉にも一番目を掛けていた胡亥に台無しにされたしまった訳です。

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