高木晴光の 『田舎と都市との ・ 日々こうかい記』

「新田舎づくり」を個人ミッションとし、田舎と都市とを行き来する人生・仕事のこうかい(公開・後悔・航海)日記

ラフ原稿

2009-02-12 09:50:22 | 日記
ちょっと長い投稿です。
今、草稿中のものの一部ですが、お付き合い下さる方・・・ お読みになった感想を頂けますか?

中頓別町をほとんど知らない方が お読みになって、この町の造材の歴史にイメージを広げることができるでしょうか・・・? また、中頓別町に興味を持てるでしょうか・・?? 

一連の記事というよりは、◆印ごとをトピックスとして写真を入れ込んだ冊子仕上がりになりますので、◆印の間の関連性は 薄いです。

**** 造材の歴史 ****

◆100年かけて育てたい森

中頓別は周囲を森に囲まれた中山間地域である。見渡す限りの緑の山を見ると、かつて膨大な量の木が切り出された造材の歴史を想像することは難しい。しかし、現在の森に入り、わずかばかり残る巨木に出会うと、周囲の木はまだ細く樹高が低い若い森であることがわかる。

また、本州の山間地のような単一種による一様な植林地ではなく、トドマツ、エゾマツの針葉樹、ミズナラやカエデなどの広葉樹が混在する樹相豊かな針広混交林であることもわかる。つまり、これら今、若い木々は、50年、100年先、私たちの子や孫が年老いる時代には、太く高く成長し、再び豊かな森を取り戻す「可能性」が高い森と言える。

中頓別の森は、世界的な木材供給が先細る時代において、非常に価値ある森なのだ。だからこそ、先人達の過去の所業を記憶の中に呼び覚まし、「人と木、材」との関係性を見つめなおし、次の100年をかけた森づくりに心を寄せたいものである。

◆中頓別の造材のはじまり

頓別地方の造材は、まだ鉄道が開通前の明治37年(1904)頃からオホーツク海岸地域を中心に始まり、同42年に三井物産が10年間で650万石という膨大な官有林の払い下げを受けた時から本格化した。 大きいもので直径が背丈以上あるエゾマツ、トドマツやハルニレ、ミズナラが生い茂る昼なお暗き、まさしく原始の森であった。それらを人力と馬橇によって切り運び出し、さらに頓別川を流送により河口の頓別港に搬送した。先人達の作業の労苦は、現代では想像しがたいものがある。

中頓別の造材は、大正初期の農場の開墾に伴い開始されたがその量も少なく、鉄道の開通までは手つかずの原生の森が広がっていた。

大正元年(1912)に開始された音威子府から中頓別に向けた鉄道工事は、当初予定されていた天塩側を北上し稚内へ到達する主要幹線計画を、中頓別経由、オホーツク沿岸から稚内への経路(のちの天北線)と大きく変更したものであった。国家が負担する工事資金も工期も既定計画よりもかかるもので、時の中央政界を巻き込んだ誘致合戦が繰り広げられた。結果、頓別回り線の着工となったのは、三井物産や大資本家に払い下げられた豊富な森林資源の利権を背景にした開拓であり、官民あげての国策的な森林開発であったとも言えるだろう。

『頓別村発達史』には、「鉄道の開通により最も木質資源の豊かな中頓別付近では、ひと駅作るごとに4―5万から10万石の造材が5ヵ年以上10年は確実であり、その蓄積量は5000万石以上」と、予測された記述があり、鉄道開通の期待の高さがわかる。そして、大正3年(1914)に小頓別駅、同5年(1916)に中頓別駅が開業し、中頓別の造材は飛躍的に増大した。

◆造材の仕事

作業は、12月から4月の積雪期間が最盛期であった。切り倒し、枝を払い所定の長さに切った原木を人力により雪の斜面を滑らせる、馬橇の機動力を生かすことができるからだ。「山頭(親方)」が木を切りだす「採面」を決め、必要な人夫(請負)を集めて、作業全体を仕切った。「山子(やまこ)」と呼ばれる杣夫(そまびと・きこり)は、働き盛りの男衆で、切り倒す者は、専門職として東北地方からの出稼ぎ労働者が多かったが、馬を持っていない地元農民にも技術の高い者が大勢いた。鋸は片引きが主で、木の硬さで鋸の種類をかえていた。「薮だし」は山中の集材場である「土場(どば)」に木を運び、「土場崩し・積み込み」が馬橇(バチバチ)に載せる。それらの作業を「てこ」が補助していた。馬方(馬追い)が駅の土場へ運ぶ、原木を運び出す道が作られた。

雪が降ると、馬橇が行き来しやすくするために女や老人、子どもまでもがスコップで雪を刺し踏み固める「道ふみ・道つけ」をした。このように作業役割には名前がついており、ひとつの作業現場に100人もの作業員が所属したと言われる。

◆山の暮らし

山子や藪だしを役割とした人夫は、山中の飯場(はんば)に住み込んでいた。鉄路開通の頃の人夫30人以上も宿泊する大きな飯場は、間口3間・5・4m、奥行き10間・18mもあり、風呂や食堂も併設されていた。壁は板やトドマツの枝を使い、内側には「むしろ」をはり、天井もないような粗末な小屋であったと伝えられているが、室内には板の間、土間があり、薪ストーブが一晩中焚かれるので暖かったという。

 道外からの出稼ぎも多かったが、山仕事に人手を必要とする冬は、各種役割を地元農民が担ったので、農家総出の収入源となり、地元農民の本州への出稼ぎ労働はほとんどなかったのは、森林のおかげとも言える。昭和の初期で、馬追いは一日10円程度が相場であった。

◆材木のゆくえ

太い針葉樹やミズナラなど高価な大木が先に伐採され、国内だけでなく、海外へも輸出された。また大正期から昭和初期には、良質な木材を製材する木工所が駅周辺に進出し、製材業最盛期には9工場を数え、中頓別では柾板も製材していた。

昭和初期に民有林の造材が終わるにつれ、製材用の原木量が徐々に減り、製材工場は道内のより大きな木材集積地に集約され、昭和中期には3社となった。その後、国有林からの原木やパルプ材の出荷が中心となり、広葉樹の伐採と鉄道輸送は昭和中期まで続いた。しかし、道路の整備と大型トラックの普及に伴い、山中の土場からの搬出は馬からトラックに代わり、積み込まれた原木は駅で積み替えることなく、港や地域外の製材やパルプ工場に直接搬送されるようになり、鉄道貨物の激減にもつながり、天北線の廃線への影響ともなった。

北海道産のミズナラは、すでに森の多くを失っていたイギリスまでも本州の港経由で輸出された。イギリスの格式高い家に伝わる年代物のオーク家具が中頓別産の木材でつくられているかもしれないと想像すると、時代を超えた木材の価値を感じることができる。

また、針葉樹の葉から油脂分を抽出し燃料にする精製所があった。戦時中が最盛期であったと思われるが、子どもの頃に材料の枝を束ねる仕事をし、化粧品の原料だとも聞いたと記憶する現在(2008)60歳の敏音知住民がいるので、昭和30年代まで続いていたと推察でき、興味深い。


◆昔はなぁ・・・  (トピックス)

木の切り出しは、運び出しやすい冬場が盛んで、山に泊まりがけで仕事をするために、飯場(はんば)は雪が降る前の11月くらいから造られました。

必要な食料は自分で持ってゆきました。飯場の生活には水が重要なので、沢から水を取りやすい平な地形が選ばれ建てられました。ですから、切りだし現場にゆくのに4~5km歩いたのは当たり前でした。時に30人も泊まる飯場は、板張りでしたが、トタンができてからはトタン屋根となり、融けた雪の雨漏りがなくなりました。炊事のおばさんがいて、風呂やトイレは別の場所にありました。

今思うと、ランプ生活の小屋によく大勢が寝泊りできたなと思いますが、室内はストーブで暖かだったです。私は、「てこ」として年下で働いていましたが、仕事仲間は良くしてくれて、悪い思い出は何もありません。

仕事を終えて、大酒を飲んだり賭けごとなんかすることもありませんでした。飯場に帰り風呂に入るのが楽しみで、疲れをとるとホットし、大きなカマで煮炊きしたご飯やワカメの味噌汁はうまかったです。一日中働いていますし、明日も早いし、すぐにぐっすりと眠りました。

昼飯は、米を炊いた飯ごうを毛糸の入れ物に入れ、その上を何回も包んで持ってゆきました。お昼になると暖をとるために炊火当番が枯れ木で井桁を組み、トドマツの葉やガンビの焚きつけに上から火をつけました。馬追いは、1升もあるような飯を包んで持っていて、外側を馬にも食わせていたのを見たことがあります。大きな握り飯をたたいてモチにしている人もいました。

切れ出された木には、直径3尺の大きなものもありましたし、2mもあるような切り株もありました。(昭和30年代) 農家だけれども、冬場に地元に山仕事があり、出稼ぎに行かなくても収入があったのは、他の北海道の地域に比べてよかったです。

話し手
Sさんは、農家のちに酪農家ですが、昭和中期に「てこ」として山仕事をしていました。つまり、中頓別に鉄道が開通し、造材が本格化してから、すでに40年を経ていた時代です。仕事道具は、チェーンソーも刈り払い機もまだなく、山の中にはトラックや重機も入れることもなく馬橇が使われていたので、仕事の仕方そのものは、造材が始まった頃とそれほど違いがないと思われます。巨木はなくなっていたとはいえ、それでもなお尽きぬ森林がありました。中頓別の森林がいかに広大で豊かであったかを知ることができます。

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その他 トピックス

◆ 木材量について

 昭和10年代の当時の様子を知る元日本通運の職員は、「駅土場に荷降ろしを待つ馬橇は1kmも並んた」と言う。馬橇一回で搬出される原木は、直径60cm、長さ3.6m程度の木材で約3-4本、約10石(0.27㎡)であった。年間10万石の木材産出量は、単純に計算すると原木約3万5000本にあたる。場所によっては1日に3回の搬送が可能だったので、仮に1日平均10本が運びだされたとすると、延べ3500頭の引き馬が必要となる。これは、100日稼動で約35頭の馬となる。 当時の馬の総数の正確な資料は見つからないが、当時の農家数から考えると、もっと多くの馬が駅と山中を往復していたと推測できる。集材するひと駅に何十頭ものばん馬が往来する様子を想像だけでも当時の駅周辺の活気が感じられる。 

◆駅周辺のにぎわい
鉄道の開通と森林開発により、木材集積駅であった小頓別、敏音知駅周辺にも数多くの人達が暮らす市街地が形成された。大正期の小頓別には、旅館、飲食業、理髪店、金物店、雑貨店、米穀、馬具商など各種商店、郵便局、駐在所、劇場、運送業、土木、建設業など数多くの業種が店や事務所を構え、中には、あらゆる消費財を販売する「デパートメント・ストア」と称した百貨店も現れた。昭和3年に建てられた菅井旅館の和洋折衷の三階建ての建物は、今も面影を残し当時の賑わいを想像させる。「頓別村発達史」によると、大正四年の小頓別駅の乗降客数は3万4000人とある。

◆ 山の道具の名前
バチバチ ・・・・ 大きなスキー板状のバチと呼ばれる大小2組ずつの橇が連結された馬橇。大正時代に出現し
全道に普及した。  
玉ゾリ ・・・・ バチバチが急斜面を下る時に、ブレーキをかける役目をする役目の丸型の橇で、制動用のイカリ状の形を先端に付けた鎖を巻いて使用する。
さって、とんび、がんた、
コメント (6)
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