高木晴光の 『田舎と都市との ・ 日々こうかい記』

「新田舎づくり」を個人ミッションとし、田舎と都市とを行き来する人生・仕事のこうかい(公開・後悔・航海)日記

今、後志に生きる⑤ 生きる・暮らすことがリアルな田舎

2012-12-06 14:36:32 | コラム風味
(連続コラム⑤) ◆生きる・暮らすことがリアルないなか(後志)

 女性たちは、男どもより「いのち」に対して敏感な感性を持っていると思います。生きるか死ぬかはビジネス社会の闘いの問題ではありません。今を生活すること、そして、目の前にいる小さな「いのち」を育てること、明日生まれてくる「いのち」を大切にすることが上手だと思えます。私は原発の是非は経済の問題ではなく、生き死に関わる生理的な問題、暮らし方の前に「生活できるか否か」の生存権の問題だと思います。

 いなか(後志)の農林水産業に関わる男は、都会の男より自然の中で「生きる」ことに対して、リアルに向かい合っています。毎日、空を見やり明日の天気を予想し、作物の日々の成長を思いやり、明日の仕事の段取りを考えています。せっかく育てた作物が風水害で一日にしてだめになることもあります。海水の温度が漁業に影響をします。波に揉まれる網は破れ常に補修し、農作業機械の整備も怠りません。常に道具に対して気をかけ整備しています。牛が健康に少しでも快適にするためには労力を惜しみません。何が安心して消費者に買ってもらえる収穫物なのか、どのようにしたら安全に作業をできるのか、生き物を収穫する仕事は、人間も生き物としてリアルに対峙しています。

 このリアルさが、私たちの暮らしからどんどんとなくなっています。先日、都会の量産販売のスーパーへ行くと、オーストラリア産の玉ねぎが198円で、その隣に北海道産が298円で売られていました。大量生産と大量輸送による流通の結果、安い食材が都会に届けられています。品質と量に違いがなければ多くの消費者は198円を選びます。しかし、その生産過程と流通のありさまを消費者は想像することはありません。目の前の値段と品質だけです。圃場で農家が玉ねぎを生産した何か月もの時間や労働は購買の目安にはなりません。これで、本当にいいのでしょうか? このままでは、海外からの食物が安くどんどんと輸入されればされるほど、日本の生産現場は消滅してゆきます。グローバル化のひとつの現象です。世界的な異常気象が起こる時代です。被害を受けた地域からの輸入ができなくなる、穀物は先物相場で投資の対象ともなり、突然に価格が高騰することもあります。はたまたTPPはもはや避けられない国際情勢に追いやられていると思います。 

 先日、中国大陸へ行ってきましたが、中国人の食品、農業生産物への安心安全に対する需要の高まりを実感してきました。有機農家も増えているようです。有機土壌の土づくりをしている会社もありました。中国の農業技術の進歩は日本が何十年をかけてきたものを一気に数年で追い抜くかもしれません。購買力のある層への国内需要を満たし、日本への輸出量は増えてゆくでしょう。シンガポールのように人口が少ない国なら、食料は輸入に頼り、工業生産の輸出で国家経済を作り上げてゆけばいいと思います。しかし、日本は人口減社会に入ったとはいえ、1億人前後の人口をここ30年は抱えなければならないのです。
 この国では農業者の高齢化の問題もあり、農業生産そのものが危機に瀕している。豊かな圃場を持ちながらも食糧が生産できなくなるかもしれない。これは、核を持つか持たないかよりも大事な国家安全保障の問題だと思います。

この事実を国民はもっと真剣に受け止めなければなりません。

 だからこそ、今、都会の消費者にもっと日本の生産現場を見てほしい、体験してほしいと思います。生きるということのリアルさを感じてほしい。
コメント (3)
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