2010.7.4(日)曇
縄文文化に触れたのは、日本一周自転車旅行で東北、北海道を訪れた際である。恥ずかしながら縄文文化が東北、北海道に花開いた文化であることを知ったのはその時である。狩猟採種で竪穴式の居住をしていたこの古い文化が温暖な九州や西日本でなく、北の極寒の地に花開いたかは旅の間中疑問に思っていた。青森の三内丸山遺跡は縄文遺跡としては最大のものであり、その施設も県立と思うが立派な施設であった。史書の方も大変しっかりされており、前記の私の疑問に明確に応えていただいた。「縄文時代は現在よりも随分暖かく、縄文海進と言って海水面もこの三内丸山遺跡の近くまで来ていました。それでも冬期の積雪はあったようで、積雪のあることが狩猟には必要な事だったようです」というものだった。各地の博物館や資料館で質問をしてもたらい回しにされたあげく、ちっとも的確な回答が無かっただけに、この博物館の回答は嬉しかった。
三内丸山遺跡のむら。道路は復元されたもので上林の山間部のより広い。(2006.9.26)
そして旅行が西日本に移ってくると縄文遺跡は数少なくなり、弥生時代の遺跡が圧倒的になる。その最大のものが吉野ヶ里遺跡だった。そして古墳時代の遺跡はその大小は別として各地にあるようだった。ただし北海道など北に行くに従って絶対数は少ない印象だった。
吉野ヶ里遺跡、戦闘設備、宗教的設備が目立つようになる。
(2007.4.6)
縄文時代は諸説あるのだが紀元前12,000年前から紀元前3世紀頃までとてつもなく長い期間の文化である。弥生時代が約600年、古墳時代が約500年などと比べても比較にならないほど長い。そして私たちの意識の中には狩猟採集で生活する縄文人と、定住耕作をしムラを形成する弥生人、そして国家を形成して権力が肥大化する古墳時代人という風にあたかも3枚の静止画を見るように思い浮かぶのだが、実際は動画のように連続した変化があるはずである。例えば大陸では戦争のたびに民族が滅亡あるいは放逐されるということもあったようだが、日本においてはそのようなことは無かったと思う。蝦夷征伐だって、蝦夷を絶滅させると言うことはなくて、懐柔したり、捕虜として使役したり、あるいは重く取り立てたりされる場合もあったようだ。明治維新でも徳川家は特別の待遇で生き続けたし、終戦でも天皇家は安泰である。それが日本人の特性であり、遺伝的な形質のひとつなのではないか。だから、何らかの大事件があって、縄文人が突然弥生人に入れ替わると言うようなことは無いだろう。つづく
【作業日誌 7/4】
ニンニク、らっきょう、玉葱収穫(すべて植え替え用)
今日のじょん:最近とみにかいかいじょんが増えている。強烈な雑種は皮膚病になりやすいとか言われている。アレルギー体質かなあとも思うが、どうも毛抜けの時期の特徴でもあるようだ。他所の犬もこの時期よくかいかいしている。
これがかいかいじょんだ。