2010.7.7(水)晴
いよいよ本題の私の想像を書いておこう。想像というより現時点での認識といってもよい。今後沢山の本を読んで新しい知識を得たら、なんとまあ稚拙な認識をしていたものかとあきれることだろう。しかしその中にはきっと当たっていることもあったりして楽しいのじゃないか。いってみれば想像力のテストのようなものだ。
人類はアフリカ大陸の森で誕生し全世界に拡がったと言われている。日本列島はかつて大陸と地続きであった。また氷河期には氷を伝って移動することも可能だった。その時期に最初の人類が大陸から渡ってきたのだろう。日本海はかつて真水であったといわれるので、丁度おおきな湖だったのだろう。ということは日本列島の北からと南からと渡ってきたことになる。日本列島に定住し、進化発展してきたものが沖縄で発見された港川人、静岡県で発見された浜北人など教科書でもおなじみの石器時代人だろう。これらの人間が1万数千年前のもので、北京原人は50万年前のものといわれるので人類の歴史は随分ながいものだと感心する。もちろんこの間大陸から南方からどんどん移入してきた人種と混血が進むわけだが、日本列島が島として孤立してからはそのスピードは緩むように思う。
2007.3.3、沖縄県八重瀬町港川を訪れているが、興味は写真のガラビ洞であって、民俗資料館も訪れたが港川人には興味が無かった。ちょっと残念。
縄文時代が1200年ぐらい前からということは、縄文時代人も現代の人間も人類の進化の中でとらえれば、同じようなものではないだろうか。縄文時代人と弥生時代人の違いは人類の進化による違いではなくて、単に文化の違いだろう。
縄文人、弥生人という言葉は学問上には無いのだろうが、便宜その時代に生きた人という意味で使わしてもらいたい。縄文人とはある程度固定して、いわゆる原日本人といっていいのではないだろうか。縄文人が活躍したのは蝦夷・アイヌ・縄文人(2)でお話ししたように東北、北海道などの北方である。だからといって他の地域に居なかったわけでなく、全国各地に縄文遺跡はあるわけだ。その生活が狩猟採種であったために北方で花開いたが、南方でも狩猟は可能だし、採集あるいは漁撈は北方と同様に行えるわけだ。初歩的な農耕も行われていたようだし、おそらく古来種だと思うのだが稲作の痕跡も出ているようだ。
弥生時代にはいると、大陸、半島、南方からの流入が盛んになり、今まで以上に混血が進んだのではないだろうか。弥生時代に入ったからそうなったのではなくて、そうなって農耕特に稲作などの技術が流入し生活形態、文化が大きく変貌し、弥生時代と名付けられたと考えるべきだろう。つづく
今日のじょん:きょうもメーが遊びに来た。じょんは大喜びだが、よく見るとメーの頬がピンク色だ。女の子だから頬紅でも付けてるのかと思いきや、、、、、メー小屋のピンクの塗料が付いてるんだって。
この小屋から顔を出すのでピンクになるんだって。