2011.10.19(水)快晴
洞峠山行も美山側に降りることなく帰ってきました。美山側に降りた人たちの「谷の景色もよかったよー」などという話にしまった、美山側にも降りてみたいなあという気がしています。道中二つの地蔵堂の他にこれという物もなく、峠の姿は古い峠を思わせるものだが、これといって地蔵さまや石碑など無く、物足らない感がしていたのです。帰ってから「北山の峠(中)」金久昌業著の洞峠の項を読んでいると、いろんなことがわかりました。
氏が峠を登られたのは何時なのか定かでないのだが、本の発行が昭和54年というので、おそらく昭和40年代頃に登られたのでしょう。洞側は植林で針葉樹の道、古屋側は落葉樹の道と表現されている。同行されていた古屋の細見さんが、古屋側の山は村有林で、村中で植林したとおっしゃっていたがそのとおり、村から峠まですっかり植林されています。このことが峠道を陰気でつまらないものにしているが、経済状況、林業政策に由来するものだから致し方ないことなのです。
洞峠美山側への降り口。
そして峠から少し下ったところに小さな石室があって、おそらく仏様であろう石柱が中に置かれているということです。これには歩いていても気づかなかったし、案内もされなかった様です。既に消滅してしまったものかも知れないが、事前に知っていれば探しただろうし、形跡なりともあったかも知れないと残念に思うのです。氏はこの石柱について次のように書かれています。
「少し下ると路傍の落葉の中に可愛らしい石室を見る。50センチ四方くらいの小さなものなので石の厨子と云った方がよいかもしれないが、苔むして古く気付かずに通り過ぎてしまうほど自然に同化している。中には石柱が置かれているが、多分仏様が彫ってあったのだろう。摩滅して形はなくとも仏様だとわかるのである。これはもう仏様でも石柱でもなく、この峠を越えた多くの旅人の祈りの凝集というものかもしれない。」なんと心を打つ文章ではありませんか。
古屋側で唯一展望の開けるところ、正面が「北山の峠」に天狗バタとある848mのピークだろうか。
そして峠附近では戦後放牧が行われていて、木の柵なども残っていたそうです。
奥上林村誌には、北桑田から牛二頭を連れて洞峠を越えて米の買い付けがなされていたことが書いてあります。
というふうに私たちの想像を絶する人馬の行き来がこの峠にあったと言うことです。
つづく(洞峠(1)は2011.10.16)
【作業日誌 10/19】
芝生張り替え1㎡
倉庫棚作り
今日のじょん:新カメラになりシャッターがすぐに降りるので、ジャンプしているところなどが撮りやすくなった。