2011.10.22(土)曇、雨
大栗峠では地蔵さまや石碑に書かれた事柄を調べたりして過ごしました。私にとってはいつものことでさしたる感動もないのですが、こういうことを初めて体験する人にとっては大変興味深いことのようです。書かれていた事柄はあらかた解明し、「大栗峠考(7)」以降で御紹介いたします。
倒れた道標、三角形の道の謎に迫ります。
大栗峠から弓削道に歩を進めます。峠の北西にある681mのピークは大栗山と呼ばれています。大栗峠が志古田の小字大栗に由来し、その大栗峠から大栗山の山名が付けられているとしたら、大栗峠の頭と呼ぶべきではないかと思っているところですが、関西ではあまり何々の頭という呼び方はしないようなので致し方のないことです。弓削道はこの大栗山のピークの東側を巻いて行きます。植林の道で荒れることなく続いています。少し行くと間伐をするチエンソーの音が左手斜面の下から聞こえてきました。そこは和知の山かと思っていましたが、よく地図を見てみると何と浅原(あずら)の谷の源頭に当たるのです。
大栗山を過ぎてから10分もしない内に山田、馬場、竹原方面に降りる道が分岐します。この分岐には「南無大師遍照金剛」と書かれた立派な石碑があり、、「文政七申十月吉日」という日付と「左志ろ下 右ゆけ道」とあり、長い年月にも欠けることもなく摩耗することもなく立っています。城下(しろした)というのは上林城の麓の村をさすのでしょうが上林風土記、城跡の項に「上林城跡 石橋・古城山・城下」とあるので、城下は馬場、山田辺りのことだと思います。
この石碑は桜井さんの今日の目標でもありました。
この分岐を過ぎると尾根の上を右に湾曲しながら進む道で、弓削道の中で最も気持ちの良い道となります。この道は「北山の峠(下)」で金久昌業氏が絶賛しているので一部を紹介します。
「この弓削側の尾根道の特長は、道が堂々と立派なことである。整備された立派さではなく、踏み込まれた高い格調と歴史の貫禄である。 中略 中間の突起を越す部分などには道巾が狭くなったりするところもあるが、その他は概ね車馬が行き来したと思われるような大きく掘れ込んだ道が尾根を曲折して貫いている。この道は樹木の美よりも道そのものによさがある道である。道の精髄というのだろうか。云々」
気持ちの良い尾根道。
氏をして道の精髄とまで言わしめたこの尾根道、確かに車馬が通行できうる道巾、掘り込みは京街道の面目充分と云うところです。極上部は植林された林だったが、後は闊葉樹の林で、ところどころに紅葉有り、松林有りで変化に富んでいます。長年使われていないため、倒木が多く歩きにくいことが難点ですが、崩れたり、寸断したりしていないことは地形的に有利な点があったことと、道作りの巧さ、保守整備が行き届いていたことが察しられます。
地図ではさほど長く思えないのですが道がジグザグに造られていることと、倒木などで歩きにくいことが重なり随分長く感じられます。行けども行けども瀬尾谷(しょうだに)への分岐が現れません。既に通りすぎてしまって、弓削まで来ているんじゃないかと思われる頃、左に急激に降りる道に出合います。目印も道標もなく、怪しげですが道巾がしっかりあるので間違いないと思い、下って行くと大きな猪のヌタ場があり、林道にぽっかり出ました。
林道に出る手前の大きなヌタ場。林道は結構長い。
ここからは三々五々、奥田幹生さんの生家を眺めたり、ゴンちゃんに挨拶したりして中尾さんの家に着きました。
下って行くと前衛の山が大きくなってきます。
瀬尾谷は府道方面から眺めると小さな谷の一つに過ぎませんが、瀬尾谷から府道方面を眺めると、弥仙山の前鋭峰が特異な姿を見せ、上林禅寺を中心に街並みが見渡せ、絶景かなという景色が拡がります。おわり
以降は「大栗峠考(7)」以降で考察してみます。
【作業日誌 10/22】
いこいの村まつり、出店
来年は30周年ですって。
今日のじょん:おとーはいこいの村まつりに出張で居なかったのだが、いつになく多くのお客さまがいらっしゃったようだ。最近はお客さまが来られると居間のドアから顔を出して挨拶するようになったのでじょん君も忙しいようだ。「かわい~」などと云われると嬉しいよーだ。本人、いや本犬も結構気い遣っているようで、お客さまの多い日はぐったり疲れて寝てしまう。
うまし夢みし。