晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠考(11) 10/28

2011-10-28 | 山・峠

2011.10.28(金)快晴

 志古田道が弓削道に京街道の座を譲った最大の理由は、車馬の通行に対応できなかったということだと考えます。谷道、あるいはトラバース道であるが故に広い道幅が確保できない、仮に造ったとしても崩壊地形のため維持が出来ないということです。そして地形図から述べたように、勾配のあり方が車馬に適していないと言うことです。
 逆に弓削道はだらだらと続く尾根道なので広い道を造ることが可能で、崩壊の度合いも少ないので傾斜のある箇所では道をジグザグに刻むことによって車馬の通行を可能にしていると考えられます。道が使われなくなった現在でも崩壊することなく、往時の形を維持していることはそのことを証明しています。
 ただ、志古田村、長野村の銘のある慶応年間建立の地蔵さまが峠に存在していることは志古田道が完全に使われなくなっていたと言うことではなく、車馬以外の徒歩による通行は盛んに行われていたと想像します。若狭、舞鶴方面の行き来は車馬でない限りこの道が圧倒的に有利であることは明白です。手荷物のみの旅人や修験者などは当然志古田道を使用すると思われます。
 これ等のことは志古田道を歩いてみてより明確にできることと思っています。いまだ歩いていない時点では想像の域を超えない説であります。

考察(4)三角形の不規則な峠の謎
 以前に紹介した大栗峠の略図を見ていただければよくわかりますが、峠は奇妙な三角の道になっています。このことについて「北山の峠(下)」金久昌業氏は一頁をさいて論評し、倒れていた石柱は地蔵さまの向かいに立っていただろうと結論づけておられます。私は当初はそう思っていましたが、現在の位置にあったとしてもおかしくはなく、礎石状の石が散乱していることもあって現在地に立っていただろうという説を述べました。弓削から登って志古田に降りる人はありません、だから左に行けば志古田に降りてしまいますよと云っているのでしょう。また、和知から登って志古田に降りる人が左辺の道を辿ったとき志古田に降りる方向を示すということも考えられます。P1000077
 
北面(上辺)から見たところ、右の凹みが左辺の道となります。小山の向こうが地蔵さまの石室。


 地形的に考えると志古田から鞍部を乗り越えて、地蔵さまの前を通り和知に下るのが基本的な峠の道でして、三角形の左辺、上辺の道は不自然ではあります。
 しかしこういう変則的な道がついている峠は憶えがあります。どこの峠かと云われると明確に答えられないのですが、登山道などで本来の峠と違う部分を通るものがよくあります。それはなぜかというと、そちらの方が歩きやすかったり、近道だったりするからです。多くの人が歩き出すと、新しい道が本道になって古い地蔵さまや道標が脇になってしまうのです。
 これと同じことが大栗峠にも起こったのではないでしょうか。本来の峠道は志古田から和知にむかう地蔵さまの前の道で、やがて弓削、山田からの道が尾根筋(三角形の上辺)を通って合流し、車馬が弓削方面から上がってくるようになって、近道というか通りやすい道(左辺)ができたのではないでしょうか。Img_3364
 
東から撮影(7,24)右から左に志古田道、中央から右上に弓削道、小山の向こうが近道(左辺の道)


  三角形といっても歩けば数歩の石室を囲んでいるだけの道だから、地蔵さまの裏を通る人も、一服を兼ねて地蔵さまにはお詣りしたことでしょう。
つづく

【作業日誌 10/28】
オクラ種採り、タマネギ床作り

今日のじょん:あまりに天気が良いので河原に降りる。夏場は草が多くて歩けないので今季初めてだ。まだちょっとおっかなびっくりみたいだ。P1000146_2

 
 

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大栗峠考(10) 10/27

2011-10-28 | 山・峠

2011.10.27(木)晴

 志古田道が崩壊地形であることは「北山の峠(下)」金久昌業著の記述でもわかります。
「前略 特に上粟野側の尾根道と志古田への谷道が荒れていた。道はあるのだが生え込んでいるいるのでブッシュの中を行くに等しく、志古田への谷道などは高巻きの斜面の道だったので、路肩の崩壊が激しくとても通れたものではなかった。」
 これは昭和55年春、和知、綾部両山の家を結ぶハイキング道が整備させる以前の志古田道について書かれています。大栗峠の項を何度も読み返しているといくつかのことがわかって来ます。一つは金久氏は55年春の志古田道整備以前に志古田道を通っておられること、それによって上記の文章が書かれていると言うことです。そして弓削道を下られて本文章を書かれたのは昭和55年春、夏だろうと思われます。道路整備以降のことが書かれ、本書の発行が55年11月だからです。このことは今回の考察にはあまり関係ないかも知れませんが、道の様子や樹林の状態がその当時のものとして考えられるのは大変参考になります。北山の数多の峠を歩かれた日時が書いてないのは非常に残念なことです。
 今ひとつ重要なことに気付きました。文中に「地蔵様の背面には慶応の建立銘が刻まれている。」というのを見つけました。初めて大栗峠を訪れたときの写真を見ると、左側の地蔵さまには確かに「慶応??丑歳 六月日」の文字が読み取れます。しかし、右側の地蔵さまはどうかわかりません。私はこの二体の地蔵さまは倒れた道標の石柱や城下道分岐の石碑よりも古いものだと勝手に解釈していました。Img_3361

慶応云々の文字が見えます。(2011.7.24撮影)


 「右 志古田 わかさ」とあることをもって志古田道が元々京街道の本道である根拠の一つとしていたのですが、もし右側の地蔵さまも慶応の建立だとしたら、台座の銘を以て根拠とすることは出来ないことになります。つまり既に弓削道が本道となっていたと思われる寛政、文政よりも新しい時代に造られたものとなるからです。いずれにしても再度訪問し、建立年を確認してから考察することにいたします。
 随分横道にそれましたが、本題に戻ります。志古田道が崩壊地形だからといって、街道が崩壊して使えなくなったわけではありません。その都度志古田や長野の村人によって補修整備がなされたと思います。それでも本街道の座を弓削道に奪われた理由は、あの弓削道の車馬通行可能な道巾の広さと傾斜にあると考えます。P1000091
 
これは稜線上ではなく尾根の途中です、如何に広い道かわかります。


 すなわち人が手荷物、腰弁当、大きくても天秤棒で往来する時代には狭くて不安定な道でも効率的に歩ける道の方が良かったのですが、経済流通が発展し荷車、牛車、馬車の必要が出てくると様相は変わってきます。
 つづく(大栗峠考(9)は2011.10.25)

【作業日誌 10/27】
倉庫片付け、ひとつの倉庫を整理するためには車庫、作業庫、ガーデンシェッド、物置などみんな片付けなければなりません。疲れるぜ。

今日のじょん:朝寝坊して忙しいときに限ってうんPに時間がかかる。場所を決めるまでうろうろうろうろうろ、五分ぐらいはうろついている。イライラ。P1000136 P1000137

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