2011.10.24(月)曇
考察(1) cの石柱について
大栗峠考前編(1)~(6)でcの石柱はお地蔵さまの前の道にお地蔵様に向かってあったのではと推理しました。これは「北山の峠」の金久昌業氏の意見と同じで、現在の位置だと、弓削から登ってきた人に志古田への道を教えるのはおかしいというものでした。弓削から志古田に向かう人がこの峠を利用するとは考えられないからです。しかし今回峠を再訪して、この石柱は現在の位置にあったものと推理を訂正します。
それはこの石柱と弓削、城下の分岐の石柱eが同時期に同一の人物によって造られたものであることが判ったからです。文政七年は1824年にあたる様ですが、寛政11年(1799年)の丹波國大絵図に既に弓削道が京街道の本道になっており、石柱の奉納者は明らかに弓削道を意識して寄進していると思われます。つまりこの石柱cは弓削道から登ってきた人に和知は右ですよ、左に行くと志古田に行きますよと教えているもので、和知に向かう人に左の道に行かないよう示していると考えます。
それともう一つ、城下分岐の石柱の足下に段にでもなっていたのでしょうか、四角い石が数個見えます。同様に峠の石柱cの傍らにも一部石材が半ば埋まりながら存在しています。そういったものは当初予想したお地蔵さまの向かいには無いので、やはり現在倒れている位置に元々立っていたとするのが妥当でしょう。
両方とも大きな石が周囲に散らばっています。
ではなぜ倒れているのかということですが、大栗峠が街道として使われなくなった後に自然に倒れたのだと思います。以前に志古田道が崩壊しているため、そちらに行かないように倒して、移動させたという推理は(大栗峠考(3)2011.7.28)少し考えすぎであった様です。しかも現在の位置にもともとあったとしたら、故意に倒す理由は考えられません。自然に倒れて、もう街道が使われていない時代であったとするとそのまま放置されたとして不思議ではないということです。石柱の辺り、かなり木の根がはってきています、これが原因かも知れません。
考察(2)お地蔵さまの銘文について
大栗峠考前半での考察の主題は、元々の京街道は志古田道でやがてその座が弓削道に代わったということです。その理由を今までに述べてきましたが、この二つの地蔵さまの銘文は新しい証拠を語っています。
台座の部分に銘が入っています。
左側のお地蔵さまaの銘文では、上林側の志古田村、長野村と和知側の川合村が施主となっています。これは志古田道そのものの村名です。
右側のお地蔵様bでは最下部まで読めなかったのですが、「右 志古田 わかさ
左 城下」と書いてあるようです。つまり志古田へ降りる道が若狭街道、高浜街道であったということです。城下(しろした)に向かう道も同じ頃にあったということも判りますが、利用するのは城下周辺、あるいはそれ以西の人々が利用したと思われ、若狭、舞鶴方面からの人は志古田道を使ったのでしょう。
つづく
【作業日誌 10/25】
倉庫棚完成
倉庫整理初日
今日のじょん:照れ隠し。
カメムシ犬じょんはカメムシに異常に反応する。ワンワンワンときたら、「どこやいな」と言うと居所に案内する。こちらが見つけられないといつまでも吠えて目線で知らせる。今夜も急にワンワンと来たのでカメムシバスターを持って彼についてゆく。ところがいくら探しても見つからない。そのうちすごすごとすっこんでしまった。どうやら勘違いだったようだ。やがて何ヶ月もやってないごじら遊びを始めた。これはじょんなりの照れ隠しなのである。