2011.10.20(木)快晴
中世の歴史には疎いので如何ともしがたいのですが、洞峠の山行の際に聞いた明智光秀と洞峠の関係、例えば本能寺の変に光秀軍の兵士が通ったかとか、紹介済みの二つの地蔵尊について光秀が作ったものとか云う話は果たして本当なのかという気がしています。明智光秀の丹波平定については綾部市史上巻第四章に詳しく述べられています。光秀が最終的に丹波に君臨したがために最初から最後まで光秀一人が丹波の平定に当たったかのように考えがちですが、綾部市史を読む限りそのようなことではなく、様々な武将が丹波平定に関わり最終的に光秀がその任に当たったと考えるのが順当ではないでしょうか。
古屋公民館横の洞峠案内板。
特に上林について見るとき、織田方の最初の侵入は元亀の侵入(1572年)といわれるもので、これは高田豊後守によって若狭側からなされたものであろうと云われています。君尾山光明寺も攻め落とされたと書いていますが、巷間では光明寺は光秀に焼き払われたと認識されており、奥上林村誌にもそのように書かれています。
上林城趾の案内板。
上林氏を制した高田豊後守は続いて位田城、栗城と綾部盆地に侵攻し、1587年秀吉の命で正式に上林を支配したそうです。(綾部市史、上林七里野ほか)
一方光秀はというと亀山城、黒井城、矢上城など丹波の主勢力と戦い、上林などとは関わりが無いように思えるのです。ただ最後まで抵抗した山家城主の和久氏を攻め滅ぼしています。(1580年)ところがこのとき城主和久左衛門佐は行方をくらましてしまい、光秀は徹底的に探し出すよう下知しています。(御霊神社文書)
光秀が上林に目を向けたのはこの時が初めてなのではという気がします。特に奥上林の谷間には光秀の意に沿わない土豪が多かったそうです。1579年睦寄町の金剛寺が焼き打ちを受けているのは光秀の意図するものでしょう。同年光秀本人が洞峠を越えているということも信長公記にあるそうです。その3年後に本能寺の変が起こるわけですから、光秀の手の者が洞峠を越えて駆けつけたということも無きにしもあらずということです。
光秀が洞峠を越えたことは確かなようですが、この地蔵尊を造ったというのは何とも言えない。
光秀が上林に目を向けたのは丹波平定もほぼ完了した時分で、いわば残党刈りのような状況だったのではないでしょうか。上林においては戦国時代=明智光秀というふうに思われていますが、当の本人は上林についてさほど気にもしていなかったのではないでしょうか。
丹波平定の総大将的立場であったこと、平定後の丹波を知行したこと、歴史的に有名人であることなどが明智光秀をクローズアップさせる主な原因だと思われますが、それ以外に上林に光秀を関連させる理由を思いつきました。つづく
今日のじょん:今日はサチが遊びに来たけれど、かみさんが留守で一緒に遊ばせてもらえなかった。チトいぢけてたけど、まあ致し方のないことだ。それにしてもサチは軽トラがよく似合う。