2013.10.13(日)晴れ
日置部に対しては諸説あるものの、具体的な証拠を見つけようとはされていないようだ。全国に数え切れないほどの日置があるのにだ。ただ文献についてはいくつかのものが諸説の根拠としてあげられている。
その中で著名的なものは「出雲国風土記」にある次の文章である。
日置の里(ひおきのさと)
郡家(こおりのみやけ)の正東(まひがし)四里なり。志紀嶋(しきしま)の宮にあめのしたしろしめしし天皇の御世、日置の伴部(ともべ)ら、遣(つかわ)され来て、宿停(とど)まりて、政(まつりごと)なせし所なり。故(かれ)、日置という。
ー「知られざる古代」(水谷慶一著)から抜粋ー
この日置の里は出雲市上塩冶町付近、神戸川北岸(日本古典文学大系頭注による)と書いてある。
2007.4.20、神戸川を下って出雲市に向かった。この下流域が日置郷だが、当時はなんの何の関心も無かったので写真もない。
大和の朝廷から日置の伴部が派遣されて政をなしたという単純な文章なのだが、政(まつりごと)とはどのようなことかと言うところが問題である。
政とは、政治、領土・人民を支配することの意味がある。また、まつりごとのまつりは祭りであり、祭祀を意味することもある。
これは実に悩ましいことで、①③どちらの説にも当てはまることである。
水谷氏は政とは、租税を徴収することであり、そのために土地を測量し人民の戸数を調べたと結論づけている。そのために太陽を観測し、地上に一本の線を引くことから始めたとある。つまり①③説どちらにも通じるのである。
律令国家となって租庸調の徴税が始まったことは周知のことであるが、その税の執行の前段階で、いわゆる検地のような作業が必要なことも理解できる。誰かがその任に当たったことだろうが、それが日置氏である可能性はあると思う。
日置氏が観測や測量に長けていたとすると、面積や距離を測るのは得意な分野であるからだ。調などは都へ直納と言うことも聞いているので、そうなると都からの距離も必要な事項となる。
また、課税の統一性という点からも、様々な氏族や部に任せるよりも単一の氏族、部に任に当たらせる方が統一がとれると考える。
こういった任務で日置部が各地に散らばったために、東北など当時の大和政権の勢力が及んでいない地域を除いて日置があるというのは一理あると思われる。つづく
【今日のじょん】
虫も獣も植物もその年によって出具合が違う。今年は梅、柿、栗は豊作、柚は不作。ムカデ、マムシ多く、カメムシは未定。猿の出現少なく、イノシシ多し。鹿は平年並みか。
写真では見にくいが、三個所のイノシシのあらした跡。