晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

日置のこと(50) なぜ太陽観測-5 10/25

2013-10-25 | 上林地名考

2013.10.25(金)雨

 日置氏、日置部がどのようなものか歴史上はっきりしているわけでは無い。もっとも品部(ともべ)そのものがどのようなものかもわかっていないのだ。「研究史 部民制」(武光誠著)をひもといているところだが、様々な説があってまるでわからない。思うに部民制とは一つの確固たる制度ではなくて、様々な要素を持つ制度で、それも時代とともに変遷していたのではないだろうか。時系列的にみれば理解できるのかも知れないが、あまりにも史料が少ないのだろう。
 
 日置氏が何時、どこからやってきたかもわからないが、その技術的能力、祭祀方法から見て渡来系、海人系とされているのは大方の意見である。
 農耕の発生とともに各集団、豪族の元で太陽を観測し原始的な農事暦を作っていた者が、国家の成立とともに日置部として各地で活躍するようになったのではないだろうか。
 律令時代以降には日置氏は宮廷内で浄火の管理などの祭祀的なことを職掌していたようだが、地方の日置では暦を作るための観測、寺社建築や道路敷設などの測量、河川整備や灌漑施設などの測量なども行っていたのではないだろうか。
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国府や国分寺に隣接する日置はその建設に関与したのだろう。
(南丹市八木町日置)


 日置部が測量に関する技術を持っていただろうと思うのは、その起源は太陽観測である。観測機器の無い時代、縄と棒きれだけが彼らの道具だったのだろう。太陽観測には東西南北の方位が絶対に必要なのだが、実は縄と棒きれだけで正確な四方を出すことは可能なのである。そのためには水平と垂直を出す必要もあるのだが、それも可能である。これらの方法はいつかご紹介したいと思っているが、古代人は手持ちの簡単な道具だけで方向と水平垂直を出していたようだ。これに加えて縄で長さを測れるとしたら、もう測量は完璧だと思う。つまり太陽観測ができるものは、測量もできるということだ。
 三内丸山遺跡の縄文期巨木建築も吉野ヶ里遺跡の弥生期高層木造建築も古墳期の巨大な前方後円墳も精密な測量がなされなければできないものばかりである。必ず優秀な測量技術集団が存在したはずである。
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三内丸山遺跡の大形掘立柱の建物は、六本の柱が微妙な角度を持って強度を保っているという。



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吉野ヶ里遺跡の主祭殿と呼ばれる建物は16.5m者高さになっている。 


日置氏はその有力候補であり、水谷慶一氏が世に出した「太陽の道」の直線も日置氏が関与したことと思うが、その道中にある多くの建造物も日置氏のなせるわざと思うのである。おわり

【今日のじょん】カメムシの季節がやってきた。綱さん予報では今冬は雪が多いと出ているが、カメムシの出現は普通かそれ以下の様相だ。もっともカメムシの出現率とその年の雪の量は無関係という実験結果を出しているわけだが。
 さてそのカメムシに対するじょんの察知能力は天才的である。
 自分で見える範囲に発見した場合は吠えて知らせるが、見えない所の場合はその方向に行って黙ってみている。
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 ぼーっと寝ていたのが、急に起きて階段の下にゆく。二階の方をじーっと見つめている。カメムシだなと思い、探すのだが見つからない。あきらめかけた頃天井の隅に見つける事となる。一体どうやって察知しているのだろう。
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コメント
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